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2013年6月

2013年6月29日 (土)

飲んでゴルフの話して...

Bu130629_2昨夜は「一夕ゴルフの話して来たるべき夏を向かえようではないか」と(誰も言わなかったけど)、新松戸という降りた事の無い駅前での宴がありました。

まあ、飲み会の言い出しっぺは酒もゴルフも面白い正統派レディースゴルファー「ホワイトタイガー54」さん。
メンバーはグレンモアでもご一緒した風太さんと、以前一緒にラウンドをした事がある現役レディース競技ゴルファー「メイプル」さん。
それに秋にはTS杯という巨大コンペを仕切る”燃える女性ゴルファー”「あぶらげ」さんと、そのご主人の身長188センチ体重100キロオーバーという巨漢「おいちゃん」さんの6人。

まあ今じゃ私も身長181.5センチ、体重90キロを減らすべく努力中の身体だけど、その「おいちゃん」と並ぶと信じられないくらいスマートに見える。
しかしその巨体の上に明るく優しそうな風貌が乗っているので、小さな子供が「くまも〜ん」といって抱きついてくると言うのはよくわかる。
それに比べて小さくカワユイあぶらげさんが並んで座っている姿は、一瞬あの「隣のトトロ」の中で、雨の中トトロと女の子がバス停で並んで立っている姿を思い出してしまった。

メイプルさんは静かに笑いながらみんなのグラスの世話や、摘みを分けてくれる...しかし、そのプレーぶりを見た私は、実は彼女は熱く情熱的な女性だという事を知っている...なんちゃって(古いか)。
風太さんは最近ラーメンの話題が多いからなあ...
みんなに「猫とゴルフのブログ」じゃなくて「ラーメンと猫のブログ」だと指摘されてむくれている。
が、今回もやっぱりラーメンの話題ね(笑)。
そんなにジローってのは違うのかねえ...近々体験してみたいと思っている。
クールな態度から時々「一刺し」する毒舌が、ホワイトタイガーさんを身悶えさせる(笑)。

さて、やっぱり主役はホワイトタイガー54さん。
お酒が入るに従って、飛んで行く...飛んで行く....すぐに全開です(笑)。
ゴルフのプレーぶりに反して...なんて書きたい所だけど、ゴルフのプレーもおなかを抱えて笑う程のプレーを結構やらかしてくれるので、酒飲んで弾ける姿もなんだか想定内とも言える様な...
実に楽しい壊れ方で、みんなのお酒が更に進んで盛り上がり、笑いっ放しで飲みっ放しでエンドレス。

話題はずっとゴルフの事で、後半はこれからプレーしたいゴルフ場の事を熱く語る。
有名なコース、難しいコース、そして海の側のコース、試合をするコース、高額なコース...
面白い事に、語れば語る程「是非プレーしたい!」コースはだんだん一つに絞られて行く。

「じゃあ、この秋にプレーしましょうか」
そういう言葉が一致して来たのは「ボナリ高原ゴルフクラブ」。
私もかねてプレーしたいと思っていたゴルフ場。


そんな話をしているうちに、あっという間に時間は過ぎて「終電に間に合う?」。
まだまだ話したい事は沢山あったけど、電車のあるうちに名残を惜しみながらお開きとなりました。
いやあ、楽しい酒だった。
したたか飲んだけれど、全く二日酔いは無し。

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2013年6月28日 (金)

コンペの前の思いつき

Bu130628_2長い事ゴルフをやってると、今の調子じゃどんなスコアしか出ないかが判ってしまう。
まあ、練習もろくにしないでコンペの時だけいいスコアを出そうか、なんてのが甘い考えだしゴルフを舐めてると言われてもしょうがない事なんだけど。

それでもなぜかコンペの前に思いついてしまうんだよね...

7月2日に漫画家松田一輝氏の主催する漫画家コンペがある。
何でも今度は難しいコースでやるそうだが、ここの所のゴルフの調子ではいいスコアなんて望めそうも無い。
という事で、少しはスコアをまとめる練習や方法を考えてみた。
最近のゴルフでの調子は、ドライバーが不安定な上にアイアンがまともに当たらない。
週に一回前後練習場に行く様にしているが、どうも身体が思う様に動いてくれず、球筋は全く安定しない。
先日のグレンモアでも、ろくな当たりは無かった。

だから
「じゃあ、コンペはドライバー使わずに3wや7wでティーショットしようか」と思いつく。
その為の練習は、気楽に打てる広いコースより緊張感のあるティーショットが必要な狭くてトリッキーなコースでラウンドするのが良い...となる。
飛ばすより狙った所に打つショットの練習、という訳だ。
幸いな事にそうした「狭い」「トリッキー」「落としどころが難しい」なんて言うコースは、ネットなどでの評判が良くはなく料金設定も十分安い所ばかりだ。
天気予報で確認した後、そうした中でも特にトリッキーだと言う評判のコースに行って練習ラウンドをする事にした。

見るからに狭いスタートホール...自信を持って振った3ウッドのティーショットは、芯を食ったもののだんだん左に巻いて行って狭いホールから飛び出て行った。
暫定球も全く同じ。
...その後のハーフで打った3wのティーショットは全て左。
打ち直して左に行かない様に打った7wのティーショットは右にすっぽ抜け。
結局、このハーフ50は切ったものの3wのティーショットは上手く打てたのは2回だけ。
後は全部左のトラブル。

昼食後、「しょうがない、コンペ用にドライバーも打っておくか」と使った1wはなんと狭いフェアウェイのど真ん中。
なぜか3wのように左に行かない。
かなり振ってもちょっとフェードになるくらい。
...打ち下しの304ヤードはなんと1オンしたりして...

コンペの練習にはならなかった...かえってティーショットの迷いが深まっちまった。
そして黒トップから換えて使ったクリーブランドのTA-3も、3Wと同じ様に左巻き。
これは重症。
自分でチェックしてみると、身体が固くなるに連れて身体が廻らなくなっている分手をアップライトに挙げすぎていたようだ。
右肩の辺りに挙げるつもりの手が首の上に挙がってしまっている為に、クラブが極端に上から入って左に抜けていると思われる。
思い切りフラットにスイングするつもりで(右肩の下の所に挙げるつもりで)、やっと普通のスイングプレーンになるようだ。
ああ、年はとりたくないなあ...身体が固くなり過ぎている。

まあ、「下手の考え」がやっぱりダメだったのは確認出来た。
今度のコンペ、練習ラウンドの唯一の収穫「フラットに振り切って行く」事だけ考えよう。
スコアよりも「気持ちの良いショット」が目標だ。

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2013年6月27日 (木)

福の神

Bu130627_2Tさんは、60歳を少し越えた小柄な男性だった。

一緒の組になってラウンドしたのは、とあるコースの9ホールオープンコンペ。
他にうちの奥さんと、あちこちの一人でオープンコンペに参加しているという50年配のYさん。
コースは関東で1〜2を争うという「トリッキーさ」で有名なゴルフ場。
プレーフィーの安さが魅力で、昼食付きで5000円もしない程。

天気もまあまあの中でスタート時間になったが、このTさん前の組を見ている時から何やら嘆きだした。
「ああ、いいなあ。あんな風にティーショットがフェアウェイに行けば楽しいんだよなあ...俺なんか一打目が当たった事無いもの」

同じ組の人の時もそう、フェアウェイに打った人には「いやあ、いいなあいいなあ」「俺なんか何遍やってもあんなとこに打てやしない」
...左巻きOBを打っちまった私にも、「いやあ、凄いタマだねえ...あんなとこまでボールが飛んでくの見た事無い...いやあ凄い」
あの、ゴルフコース越えて田んぼの方に行っちまったんですけど、私のボール。

クラブは最新の人気クラブを持っている。
ただ小柄な所為か飛距離はあまり出ない...そして、この狭く難しいコースでその状況に合わせて打つ前に嘆きまくる。
左がOBのホールでは、「左が怖いよねえ」と言いながら右にポヨヨヨ〜ンと弱々しいボールを当てる。
170ヤードの谷越えでは、「いっつも俺のドライバーじゃあここを越えないで谷へボールが落ちるんだ」と言いながら、それまでとうって変わったすくい上げスイングで、ダフった上に当たり損ねて嘆き通りに谷ヘボールを落とし込む。
そして人生の不幸を一人で背負ったみたいに、長く悲しい泣き言が続く「この谷越えれば死んでもいいよ〜」(他のホールではそんな距離はちゃんと打てている)。
ほぼ全てのホールで、ほぼ全てのショットで嘆き通したあげく、世の不幸を全て背負った様に悲しげに肩を落としてハーフを終える。

昼食時、「このホールじゃいいスコアを出した事無いんだ」
「本当にここは難しいよなあ、絶対に谷を越えないホールもあるし、グリーンも難しいし...」
「ここはちょっとトリッキーすぎるでしょう。他にはどんなコースに行くんですか?」
「え? 俺、ほとんどこのコースしか来ないよ。毎月2回のオープンコンペ出てるし、ほぼ毎週来てる」
「コンペ毎回出てて、いつも賞品貰ってるんですか?」
「いやあ、俺、もう何十回も出てるけど参加賞以外貰った事無いよ」

「ただ、俺と一緒に廻る人はかならずなんかの賞に入って、いい物持って返ってるよ」
「だから俺、福の神って言われてる。」

確かに。
その後注意していると、彼が嘆いて話しかけた人にはすぐにラッキーが表れる。
嘆かれた後のうちの奥さんのティーショットは、OBの谷に1直線だったのにたった一本立っていた木の幹に当たってフェアウェイに戻って来た。
やはり嘆かれた後のYさんのショットは、明らかにミスショットで谷に落ちそうだったのが手前のカート道路に跳ねてOBの谷を越えてグリーン側に...
明らかに引っ掛けてOBゾーンに言った私のボールは、林の中でキンコンカンコン音を立てながら落ちて来てなんとグリーンのカラーまで...

彼の泣き言を聞いてあげると、確かにその後何かいい事が表れる。
その代わりに彼にはラッキーは何も無い...どころか...。

言っちゃ悪いけど、見た感じは福の神の正反対の神様の様な雰囲気のTさん、自分のラッキーをあの童話「幸福の王子」の様に他人に分け与える人なのかもしれない。
いつかは彼にもラッキーが束になって落ちてくるのかも...嘆くのやめた時に。

ラウンド終わってフロントに行った時には、もう成績表が張り出してあった。
Tさんの話を聞いて上手くまとめていたYさんは、今度は「きっと自分の番」と期待して見に行ったけど微妙に外れて参加賞。
じゃあ、ひょっとして俺?...も参加賞。
Tさん、今度もやっぱり、の何十回目かの参加賞。

まさかうちの奥さん?
...ずっと名前が無い。
「あった! ビリから2番目。」
福の神のプレゼントは、ブービー賞でありました(やはり御利益、御利益)。

で、その福の神さん
「今度は来月の第一水曜か、よ〜し。」
...めげてない。

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2013年6月25日 (火)

直ぐに出来るゴルフコレクティブル  1

Bu130625ゴルフコレクティブルというと皆さんはどういった物を思い浮かべられるであろうか?
立ち寄り難いジャンルと思われるやも知れない。
海外の話を見聞きすると、ロングノーズや手鍛冶アイアン等の木製シャフトのクラブに、豪華な装丁の古書や調度品に大変な額のお金や保管スペースを掛ける人達の例が出てくる。
我が国にもそういった、及びそれに準ずる方々が居られるし、皆さんご存知のブログにて集めた1940〜60年代のクラブを紹介されている、旧来の日本的コレクターとは一線を画している方々が居られるのを忘れてはならない。

と言っても大半の方は自分には縁が薄いと感じられるやも知れないし、あるいはやってみたいけれども取っ掛かりが見付からない、お金や知識(これは重要だ)スペース等の不安を感じていることだろう。
これらの方々に私に実体験から、3000〜5000円の元手と休日等にあちこちを歩き回る根気があれば、目に見えた形での成果を挙げることの出来る分野を書いてみよう。

それはボールの収集である。
ボールと言っても数万〜数百万の値が付く様なフェザリーやガッティ、初期のラバーコア(糸巻き)などではなく、1970〜90年代の糸巻きボール達だ。
私がこれを始めるきっかけとなったのは、収集の為ではなくプレーで入り用となった為であった。
2009年にヒッコリーゴルフを行うことに成り、クラブに優しい糸巻き、それもバラタカバーのボールが必要になったのだが、新品の物がおいてある地クラブ屋さんでは値がそのままで少ししか買えず、クラブ屋さんが「ここで買うよりもロストボールのパックから探してごらん」とアドヴァイスをしてくれる程であった。
このアドヴァイスは本当に有り難かった。
それならばリサイクルショップにまとまった数が在るのでは、と大手チェーンから個人経営の店を廻った所、二番目?のお店で糸巻きボールがクリアケースに一杯、10個50円で売りに出されていたのだ。
これ幸いと二回に分けてスリーブ箱を含め6ダース(打)程購入した所、様々な種類のボールがあったことから集めるのが愉しくなり、(いくつかを使いロストしたが)以降ボールを求めリサイクルショップを廻る様に成った。

最初の半年で使用分を除き1グロス程を集め、安いボールが見付からず一年程の中断を経て現在は非使用球が2グロス1〜2打程、バラからダース箱まで様々在る。
これらのコレクションの数量トップ2はダンロップとブリジストンで、前者が1グロス1〜2打、後者が6打程在り、4種のダンロップ65、10種のマックスフライ(サイズ、コンプレッション多数)にレクスター5〜6種とイーグル2種が量のほとんどで、残りの5打強に28種、有象無象のブランドが集まっている。

名前を挙げるとケネス・スミス、ベンセイヤース、タイトリストツアーバラタ、ガッティ+10、ダンロップオーガスタ、ブリジストンJSジャンボ、トップフライとバードオンボール等々...使ったことが有るぞ、いやこれは未見だと感じられる方々が居られるだろう。
貴重な物はあまり無いと思うが、珍しいと感じているのが黒フィルムに包まれたダンロップ65と、箱にサンプル品と記された青字の同モデル、英国製の六角ディンプル球、ユニロイヤルPLUS6のフィルム入り、ブリジストンが練習用として袋詰めして販売したレクスター半ダース(未開封)、青数字にpro-parと有るメーカー不明球、そして様々な企業やコース等のロゴが入ったボール達であろうか。

このネーム.ロゴ入りボールも収集に適している。
この種のボールは現在でも製造されているので糸巻きよりも入手しやすいかもしれない。
分類は企業、コースのノベルティ品、大会等の記念品とプロ使用ボールが有る。
ボールのプリントも活字、エンブレム、社標、商標とバリエーションが有り、箱にプリントがなされている物も有るのでチェックをして見るのも良いだろう。

さて、ボールを集める為の考察に移るとしよう。
購入先としてはリサイクルショップが一番手頃であるが、大手チェーンと個人経営・マイナー店では開きが有る。
大手店の場合では個人の所有品の他に地クラブ屋さんが閉店の際に売却したのでは、と思える量が出てくるが(店舗や時期によってばらつきは有るが)他よりは安定しており、ほとんどが新古品だ。
値段は1スリーブで105〜525円で、大抵は210〜315円だが店晒しが続いた場合105円を切ることもあった。
ただダース箱で売っている事が少なく、バラしてスリーブごとにしている感が在る、またバラ売りは一度しか見た事が無く(40円程)半ダースにまとめて袋詰めにされている事が多い。

一方個人経営・マイナー店の場合は在庫が有る場合にはかなりの量を手にする事が出来るが、ムラは先記の店よりもずっと大きい。
売っている種類はバラ・スリーブ・ダース箱に新古、キズものと様々で、値段にも波が在る。
実体験で書くと、ダース箱780〜2800円(高い方は買ってない)、スリーブ箱30〜280円、バラ10〜20円の他に先の10個50円やケースに詰め込んであって1000円というのもあった。

思うに安値でボールを手にするならば後者だが、安定した入手先としては前者が一番と思う。
と言ってもリサイクル品なので売っている人達に左右されるため、買いに行く店は一軒に留まらず、何軒も根気よく訪ね回るのが重要だ。
上手くいけば大手チェーンを数件廻って糸巻きボールを有る程度入手出来るはずだし、個人経営の所には思わぬ掘り出し物が眠っている事だってあるのだ。
最初は無駄足に終わる事も有るだろうが、一度集まりだしたら探し廻る事も愉しく成って来るハズだ。

このやり方はゴルフ収集としてだけではなく、プレーをする為の糸巻きボールを集めるのにも適していると思う。
少なくともネットオークションで悩むよりも実際に手に取って品質を確かめられるし、新古品も多い上に安上がりなのでボールの残高にお困りのパーシモン・ヒッコリー党の方々はお試しを。

話が少しズレたので、ここに書いた1970〜90年代の糸巻きボールの価値について書いてみると、1個で数十〜数百ドルもする1900〜40年代の物には及ばないが、海外の物では1スリーブで15〜20ドル、プロのサインが入ると倍の値がついているのをゴルフアンティーク店のカタログで見た事が有る...まるまる当てはまるかは判らないが、目安には成るだろう。
もしこれらのボールにも結構な価値があって、今後トレードや何やらの対象と成り、新古の糸巻きが払底し、パーシモン・ヒッコリー党の方々がプレー出来なくなる事を心配される時が来たら、海外には打60ドルと高目だけれどもヒッコリー用のしっかりとしたボールが、ルイヴィルゴルフやタッドモア等から販売されている事をお知らせしてご寛怒を頂きたい。

*以上は著者(松村信吾)の経験より。





(この文の著作権は松村信吾氏に所属します)

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2013年6月24日 (月)

頭を使わないショットは許すべからざる罪悪に等しい

Bu130624_2「頭を使わないショットは、ゴルフでは許すべからざる罪悪に等しい」...トミー・アーマー。

トミー・アーマーは「シルバースコット」の異名を持つ、1920〜30年代の名ゴルファー。
全英・全米オープンと、全米プロに勝っている。
選手としても有名だが、その引退後に数々の「名器」と言えるクラブをでザインし、ボビー・ジョーンズでさえ教えを乞うたと言われる卓越したゴルフ理論を持っていた。

この言葉の後には「しかも驚くべきことに、それがしばしばコース外では優れた頭の人によってなされることだ」(摂津茂和著「不滅のゴルフ名言集』より)と続く。

確かに。
仕事上では落ち着いた知性豊かな紳士と見られる人が、コース上で突如として「トンデモ」人間に変身して爆発してしまったり、壊れてしまったり、消滅してしまったり、飛んで行ってしまうことは誰でも目撃したことがあるだろう。
そうした人がそんな状況に陥る時には、必ずその時に「え?」と思う様なショットをしている。
...ただ残り距離だけで判断したショット。
...願望のみの判断でのショット。
...見栄のみのショット。
...「なんとなく」のショット。

では、トミー・アーマーの言う「頭を使うショット」とはどんなものなんだろう。
不肖へっぽこゴルファーが考えるに、月並みだけど「自分の実力に合わせた状況判断」しかないだろう。

例えばパー4の池越え3打目のアプローチ、ピンは右手前、グリーンと池の間にはガードバンカー、池越えでなくても左側を狙えばグリーン左隅には乗るが上って下ってのロングパットが残る。
どうするかは自分の実力と、望むスコアと、危険回避の順番。
もちろん上級者なら上げて止めるアプローチでピンを狙うかもしれない。
しかし、もし失敗すれば池ポチャあるいはバンカー土手に目玉の状況も考えられる。
ライ次第で大きめにピン奥に乗せて、上手くいけばパー、ミスしてもボギーなんて言う選択が無難だろう。
アベレージなら、池を避けて乗せるか、始めから大きめにピン奥狙いだろう。
しかし、左に乗せて難しいロングパットであれば、そこから3パット4パットさえあるかもしれない。
もしバンカーが苦手じゃない(と言っても「出すだけ」なら自信がある程度でいい)なら、ピンを狙ってバンカーでも難しいロングパットよりいいと考えられるかも知れない。
出して2パットでボギーなら御の字だと。

これが、自分の実力を考えずに「願望」や「希望」や「妄想」で、何も考えずにピンにしか打って行かないゴルファーはここで大叩きをする可能性が高い。
普通ならこういうことは学習するものだが、ゴルフというヤツはどんなヘタクソでも何度かはプロもどきのスーパーショットが成功したりするから始末が悪い。
ゴルフの名言格言にだって「悪かったことは忘れて、良いショットのみを覚えておけ」なんてことが書いてあったりするもんだし。

まあ、極少ない「気持ちの良かったショット」だけを頭に残しておいてプレーするのは、実に楽しいものなんだけど...(失敗したショットを思い出せという訳じゃないが)スコアを気にする時は、そう言うことを考えて「今日自分が出来る可能性の一番高いこと」を選択するのも「あり」かと。

ティーショットも、セカンドショットも、「頭を使う」ということは「既成概念に縛られない」ことでもある。
「いつもの」とか「普通は」という他人の常識を捨てて、自分の頭を柔らかくして自由な気持ちでゴルフを楽しむということにもつながると思う。
自分の体調はいつも同じではない。
ホールの状況も同じではない。
吹く風も天気も同じではない。
ちょっと考えて楽しむのがいい。
それで失敗してもいいじゃない...たかが「真面目な」「真面目な」遊びなんだから。

でも、だからこそとミー・アーマーが言う様な(いつでも新鮮な気持ちで遊べる様に)、「頭を使った」ショットをすることをオススメする。
たとえ、「下手の考え休むに似たり」なんて言われようともね。

ただし!
「考える」って事で考え過ぎて、スロープレーにだけはならない様に!
スロープレーのゴルファーには、考える資格は無い。
ただ「早く打て!」と言うだけだ。

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2013年6月21日 (金)

どじ

Bu130621_2Yさんは「しっかりしている娘」だと、小さいころから言われて来た。
自分でも、そう立派なもんじゃないけど普通に「ちゃんとして」生きて来たと思う。
この年までには、少しだけ周りから褒められたり評価される様な事柄もあった。
友人には頼るより頼られる方が多く、流行の物に流される事は少なく、軽はずみな事をする事もあまり無かった。
...まあ、普通に落ち着いた人生を送って来た様に思う。

ゴルフを始めるまでは。

ゴルフは友人達の間で流行りだしたのにつられて、軽い気持ちで始めた。
ゴルフ教室に行ったり、友人達と回ったり、町内会のコンペに出たり...月1回程度のラウンドと月に2〜3回程度の練習という日々を過ごして来て、もう7年くらいになる。
ゴルフをする事は面白く、流されて行く生活の中で月1回のラウンドは重要な生活のアクセントであり、「その日の為に」という目標を持つ楽しみなイベントであった。

しかし、その楽しみのゴルフ、Yさんにとって不思議なことばかりが起こる。

始めは虫関係が多かった。
スタートホール、藤棚の下で軽く素振りをしていたらクラブが藤棚の葉っぱに触れた...そのとたん首筋に熱い感覚...すぐその後に電気に痺れた様な痛み!
地元で「デンキムシ」と呼ばれる毒蛾の幼虫が首筋に落ちて来たのだ。
すぐに取り出してもらったが、痛みと腫れでその日のゴルフは途中で棄権した...帰ってから医者に行って注射をしてもらってやっと落ち着く事が出来た。
このデンキムシには、その後数回被害にあった。
そしてあるとき、グリーンオンしてからパターを持ち、手袋を脱いで腕組みをした。
...そのとき左手の人差し指と中指に強烈な針で刺した様な痛み!
なんと左手の下に蜂がいた...ベストにとまっていた蜂を、知らずに左手で押さえてしまったのだ。
当然人差し指と中指は腫れ上がり、その後のプレーは続行不可能...
気がつかなかったのはアブも...ハーフを終わってハウスに入った時に、「その顔どうしたの?」と言われて慌てて鏡を見ると、自分の顔の右半分が大きく腫れている!...それを見たとたんにその右半分がしくしく傷みだした。
アブに刺されていたのは全く気がつかなかった。

その次は...プレーの間。
ティーショットを打ってから斜面を前の人に続いて降りて行ったら、20メートル程滑り落ちた。
斜面のボールを打った後15メートル程滑り落ちた。
ボールの打ちたい方向を見ようとしてバンカーに転げ落ちた。
景色を見ながら歩いていてクリークに落ちた。
いずれも怪我は無かったけれど、そんなに派手に転んだ経験はゴルフ以外ではなかった。

...ボールを探していてぬかるみにハマり、気がついたら片足が裸足だった。
スタート前に皆がクラブフェースでボールをリフティングしているのを見て、真似したら2回で新品のボールが池に入って、スタート前に一度も打たずにボールを無くした。
ボールをセットした後、ティーマークに引っかかってひっくり返った事は数知れず。

そして、痛い思いをしたのは....
「打った後も顔を残して、ボールのあった所を見ているつもりで」と教わったので、しっかり顔を残してショットしたら大ダフリして、飛んで来た土や砂が目に入ってどうにも取れなくなりギブアップした....これはしばらく目医者に通う事になった。

テレビで見た様に、バンカーから出た時に足の裏の砂をクラブで叩いて落とそうとしたら、左足の靴の裏叩くつもりが右足のスネを叩いて骨にヒビが入ってしまった...3ヶ月間休養。
カップインしたボールをとろうとして目測を誤り、カップの縁で人差し指を激しく突き指した...一ヶ月以上ゴルフ出来ず。
カートに乗る時に頭や膝をぶつけた事はしょっちゅうあって、ゴルフが終わるとこぶや青タンだらけになる...カートから降りる時に捻挫したのは特に痛かった。

Yさんは思う。
凄く真面目にゴルフしているし、運動神経だって人並みだと思う。
今までの生活で注意力散漫なんて言われた事無いし、わりと気がつく人だと思われていると思う。

なのに...
なんでゴルフをするときはこうもおかしな事件が起きるんだろう。
最近では一緒に回った事がある人は、どんなことが起きても当たり前の様な顔をして見ている...ちょっとため息をつきながら。

おかしい。
絶対におかしい。
私が「ドジ」なんてあだ名を付けられるのは。
私はいつだって周りに気を使っているし、邪魔にならない様にしているし、いつだって落ち着いているし、いつだって素晴らしいゴルファーであろうと思っている。

Yさんは、キッパリと、みんなに言いたい。

「私は、絶対に『どじ』じゃない!」

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2013年6月20日 (木)

スクープソールは難しい

Bu130620_2もう左手首の痛みは普通の状態では感じない。
ただ、クラブをグリップすると何となく不安を感じる。
また、あのダウンからインパクトの辺りで「ギクッ!」とした痛みが来そうな気がする...
本当は多分もう大丈夫だと思うんだけど。

今年に入ってずっとアイアンは黒トップを使っているんだけれど、こういう状態になって改めてスクープソールのアイアンの難しさを確認した。
なにしろ「ソールを滑らせてボールを打つ」という事が、とてつもなく難しい...というより出来ない(もちろん私の技術レベルでの話だけれど)。
左手首に不安が無かった時には、ライがちょっと悪くても「芝とその下の土ごと掘り返して打って行く」なんて事に迷いは無かった。
大ダフリに見えて実はボールにきちんと当たっている、なんて事に気持ち良ささえ感じていた。

しかし、このスクープソールというヤツ、本当は日本のゴルフには向いていない。
この前の全米オープンなんかの映像で、出場選手達...世界の名手達が「わらじの様なターフ」を取っていたシーンを何度も見たはずだ。
もちろんボールはきちんとグリーンに届き、きっちりスピンが掛かる。
あれはフェアウェイの芝がベントなので、ダウンブローに入ったアイアンは「スパッ」とカミソリの様にフェアウェイの芝を切り取る事が出来る。
こんなフェアウェイであれば、スクープソールのアイアンでも問題なくプレー出来る。
(実際に私も日本でいくつものベントのフェアウェイのコースでプレーした事があるが、「え? うそ!」というくらいにあっさりとターフが飛んで行く。)
ところが、まだほとんどの日本のコースのフェアウェイで使われているのは野芝だ。
これはいかにカミソリの様なリーディングエッジのスクープソールアイアンでも、ターフが取れない。
ダウンブローに打ち込んでも、激しい抵抗とバラバラになった芝の根っこと土塊が飛んで行くだけ。
ターフを戻そうなんて思っても、チリジリになった芝の破片を集めてみても元通りなんてなりやしない。

こんなフェアウェイではバンスのついたアイアンの方が、ダウンブローに打ち込んでもソールが芝の上を滑ってくれて抵抗も少なくミスにもなり難い。
しかし、スクープソールのアイアンは芝の上を滑ってくれない為に、ターフを取らない様に打とうとするとほとんどがトップボールになる。
いかに黒トップが打感の良いアイアンだといっても、きっちり打ち込まないとその感触は楽しめない。

7月初めに漫画家コンペがある事を考えると、今の状態で黒トップは不安があり過ぎる...という訳で、今年初めてアイアンの変更...もうひとつのお気に入り、クリーブランドのTA-3でゴルフをしようと思う。
このアイアンはバンスソールである上にシャフトがセンシコアなので、手に来るショックは非常に弱く打感は黒トップに負けずに良い...決して易しいアイアンではない(ハーフキャビティーはデザイン上の意味しか無く実際はマッスルバックやフラットバックアイアンと変わらない)けれど、ガンメタの色合いとともにフェース形状が気に入っている。

あとの問題は、太り過ぎと身体の固さ...この前のラウンドで撮ってもらった映像を見ると、スイングに柔らかさがほとんどないのが気になった。
昔は身体の柔らかさにも自信があったのにねえ...

さて、あと10日あまり、コンペに向けて調整して行かなくちゃ。

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2013年6月19日 (水)

知られざる名器!?

Bu130619パーシモン時代の、俗に名器と呼ばれる1940ー60年代の古きマグレガーウッドのファンは国内でも多く、皆さん集めて鑑賞してみたり、修理や使用するなど様々なカタチで愉しまれている。
ここでマグレガー社のアンティーク(クラシック)・ヴィンテージファンの方々に報告、そして探してみられる事をオススメするモデルの話を書きましょう。

それはトミー・アーマー以外の693モデル?
クラフトマンの手によるプロトタイプやプロ支給品?
いやいやそれ等は魅力的だが、私が述べるのはクラブのロゴにシャムロックのマークが使われていた、クロフォード・マグレガー&キャンビー社時代末期に日本のゴルファーの為に造られた、宮本留吉、安田幸吉、浅見緑蔵モデルのウッドクラブである。

この日本プロゴルフ初期を代表する三名手のモデルの存在に気がついたのは当時の雑誌広告からでは無く、国内クラブメーカー揺籃期について書かれているユニバーサルゴルフ社の『ゴルフ用品業界総覧』に掲載された、マグレガー代理店(1925ー38間)イシイカジヤマの1934年度カタログからであった。
そこには三人が1931年にアメリカ遠征した際ロサンゼルス市長と握手をしている写真の下に『Pro-Model.MACGREGOU CLUBS.SPEC マグレガー特製宮本、浅見、安田三大プロモデル発売』とあり、広告を要約(大分組み替えたが)すると以下の様な物である。
・三プロのモデルは日本のゴルファーの長・短所を熟知している彼等の経験・研究から造られ、従来のプロモデルとは一線を画しており、各々独自の特徴を有している。
そしてマグレガー社が日本のゴルファーの為に、同社のあらゆる技術と科学的なテストによって前例の無いプロモデルを製造したのである。

この雑誌広告を探すと1933年の『GOLF』1月号あたりから〜3回出ており、そこにはドライバー、ブラッシー、スプーン、バフィの4本セットだと書かれてはいるが、値段やクラブのイラスト・写真は載っていない。
ここでもう一度34年のカタログを見ると、エキストラクラブの項目にASAMIのバフィの名が在り値段は¥34・50、クラブの特徴は
・ヘッド:マホガニーフィニッシュ、サイン(オートグラフ)形刻印入り
・フェース:底部にファイバーインサート
・ソール:キーストン型ソールプレート
・シャフト:ツルーテンパー社製クロムメッキ
・グリップ:黒皮の高級品
・浅見緑蔵の名入り
以上であるが、この他の情報は今の所見られないでいる。

クロフォード〜時代同社は1900年に非公式全米op勝者ウィリー・ダンJRと1年間スタッフ契約(W.Dを組み込んだロゴがある)をしたり、同じ頃広告に1899年全米op勝者ウィリー・ホアがウチのクラブとボールを使っているという写真付き広告を見た事がある。
しかしクラブのモデル名となると、W・DとロゴにつけられたJ・マグレガー(同名のスコットランド職人がアメリカに短期滞在していたが詳細不明)=(後者は普通に別のモデル名がついているが)を除いて皆、数字やアルファベットから始まってエッジモント、OA、パイロット、ポピュラー、ワールドウィン、バッブ、クレイモア、チーフトゥンといった人物名とは関係のない物ばかりの為、我らが三プロのモデルは経営が替わりトミー・アーマーを筆頭とするプロモデルを製造する以前のマグレガーにおいて注目すべき存在だろう。(訂正:「マグレガーとウィリー・ダンjrの契約は1898年3月から、WDのロゴは同年5月18日から」(前者www.miamivalleygolf.orgのMacgregor in our Areaからの2006年時書き写し。後者PatrickKennedy[Amerikan 1998-1930 Golfclub Trade Mark`s](JGA資料室)より)

ただ私は以前、世界的なヒッコリーゴルファーであるランディ・ジェンセンがイーベイにショップを出していた頃、出品クラブの中にヒッコリーシャフトでフェース中央に野球ボールを模した象牙の象眼(インサート板でなく地の木にである)の入ったマグレガー、タイ・カップモデルのウッドを見たが、あれはどういったモデルであったのか...右利き用であったと記憶しているので、カップ本人に送られた物では無いだろうし、そうだとしても(確かだが)即決1600ドルは安すぎるが、結局何も判らない内に売れて行った...

それはともかくである。
主題の三名手のクラブはどれくらい造られたのであろうか。
イシイカジヤマで働いていた職人の回想によると、クラブは三ヶ月に一回の割合でアメリカから入荷しており、本数は一度につき200セット位(ただフルセットかウッド・アイアン別々かは不明)だったというから、マグレガーの経営変換期と重なっている事と合わせて考えると精々各十数〜数十セットくらいではなかろうか。
もしアメリカでも販売されていれば(日本人経営のショップもあったので)もう少し多いだろうか...

もしそうであればコレクターが持っているか、一山いくらの中に紛れ込んでいるか、オークションに出てくるだろうか(以前イーベイでミズノの宮本留吉モデルのウッドが出ていたが)。
国内限定販売であったら現在までに破損、戦災、接収、価値を知らずに廃棄といった事があるだろうから、それらを踏まえて探すとなるとベン・ホーガンやその他の693やプロトタイプどころか、名工の造った『本物の』ロングノーズウッドを探すよりも(こちらは市場があるので)大変やも知れない。

たとえ実物が見付からなくても、戦前に世界的となるメーカーから日本人プロのモデルが出ていた事は日本のゴルフ用具史に特筆すべき事だろう。
だが私は記述のみのクラブ達が、コレクターの皆さんの執念と情熱によって現実の世界に戻ってくるのではと、淡い期待を持っている。


主な参考文

ゴルフ用品業界 1994 ユニバーサルゴルフ
*Golf 1933年合本 目黒書店
Golf In The Making(2nd Edition) 1986 イアン・ヘンダーソン デヴィッド・スターク
ANTIQUE Golf Collectibles (3rd Edition) 2004 Chuck・Furjanic
*はJGA資料室にて閲覧



(この文の著作権は松村信吾氏に所属します)

 

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2013年6月17日 (月)

2013年全米オープン最終日

Bu1306171_2春の祭典が「花のマスターズ」なら、真夏の祭典がこの(思い切りどMな)メジャー「全米オープン」なんて気がする。
7月の全英オープンは、日本では「これから真夏」なんて季節なんだけど、あの荒涼としたリンクスの風景を見ていると「夏の終わり」「ゴルフシーズンの終盤」なんて気がするから不思議だ。

そんな夏真っ盛りを思わせる今年の全米オープン...メジャーと言えばただ距離が長いコースのイメージが強かったんだけど...このメリオンでの全米オープンを見ていると、飛距離よりも正確さやボールを操る技術を競うわせるセッティングで面白かった。
パー5と言えば600ヤードだって2オンするのが当たり前、パー4は全て450ヤード以上、パー3は乗るのが当たり前、なんて大雑把なゴルフをコースが許さない。
300ヤードを切るようなパー4があったり、100ヤードを切るようなパー3があったり、かと言えば500ヤードを超えるパー4があったり...それに強烈なラフとフェアウェイの傾斜に、速くて複雑なグリーンが待ち受ける。(ただし、短いから易しいなんて訳ではなく、100ヤードを切るパー3で優勝争いをしている連中がボギーやダボを打つ。)
結局1オーバーが優勝スコアとなり、相変わらずの全米オープンらしい結果となった。

優勝したJ・ローズは今年は注目していなかった...最近調子が良いのは聞いていたが、特にこういう難コースに強いものをもっているとは思わなかったので、まさか優勝するとは思わなかった。
こんな難コースに強そうだと感じたのはL・ドナルド。
ショットの正確性やパットの上手さから、パープレーから2アンダーくらいで回って必ず優勝に絡むと思っていた。
彼が崩れたのは3番のパー3....ティーショットが女性を直撃して女性が倒れてしまった。
幸い大事はなかったようだが、(精神的に動揺したのか)そのあとの彼のゴルフは全く精彩を欠き、崩れる一方の展開となってしまった。
期待していたS・ストリッカーは、2番で死んでしまった。
ショットの正確さを誇るストリッカーが、ティーショット右にOB、4打目がシャンクして再びOB、結局8を叩き脱落。
「優勝を狙う」と宣言していた気合いが、彼をして余計な力を入れさせてしまったのか...

しかし、大穴としていたJ・デイは最終ホールまで粘った。
ショットも、パットも、どれも「あと一つ」足らずに2位タイで終わってしまったが。
でも、優勝したJ.ローズに比べて何一つ劣るものは無く(経験だけは劣るか)、近い将来メジャーを獲る事は間違いないだろう。

優勝する確率8割はあると思っていたミケルソン。
先にやって来たバーディーチャンスを、いずれもカップに蹴られて外してから、流れはアンラッキーの方に傾いてダボ二つで死んだ。
そのあとは、セカンドを入れたイーグル一つがあっただけで、はじめにチャンスを逃したパットは一日入る事はなかった。
先にあった2度のバーディーパットのうち一つでも入っていたら、今日の優勝はミケルソンだったと思う...こうした試合でポイントとなるゴルフの流れを掴み損ねたという事か。

松山は早いスタートで良かった。
風も弱く、プレッシャーも少ない中で攻めた結果は見事。
松山が18番ホールを終わった時点では37〜8位だったのが、遅い組が強い風や強い雨で苦しんでスコアを落として行った為に、終わってみれば10位タイ...来年の出場権も手に入れる事が出来た。
来年は、優勝争いの中でこの最終日のようなゴルフが出来れば、世界に期して戦える実力者として認められる事だろう。
その為には、日本での試合結果慢心しない様にして欲しい。
世界のツアーで比べると、今や日本ツアーはアジアンツアーより下と言われているんだから。

最後まで誰が優勝するか判らなかった今年の全米オープン、それなりに面白かった。

さあ、あとは7月の全英オープンだ。
ここでは、歴史に残るような試合が見たいなあ。

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2013年6月16日 (日)

2013年全米オープン3日目

Bu1306161_2初日の雷雨中断ですっかり予定が狂ってしまって、2日目が終わっても予選カットが決まらず3日目になっても予選を続けている状態でなんだかドタバタしている。

特に日本のテレビ中継では、松山ばかりが中心になって全体の試合の流れが判り難くてしょうがない。
日本のテレビ局はゴルフ中継をなんだと思っているんだろう。

という事でごゴルフチャンネル中心に見ていて、やっと試合の流れが判って来た。
全長7000ヤード無いというのに、メリオンというのは面白いコースだ。
200ヤード以上のパー3が3つに98ヤードのパー3が一つとか、300ヤードを切るパー4があるのに500ヤードを遥かに超えるパー4もある、とか....
それで、3日目が終わってアンダーパーが1アンダーのミケルソン一人、とは。

ミケルソンはメジャーの勝利は、マスターズ3勝と全米プロ1勝だけ。
今まで残した成績から見たら、どうしても全米オープンと全英オープンのタイトルは欲しいだろう。
特に全米オープンは2位に5回もなっているんだから、この大会にかける気持ちは強いだろう。
今までにこれだけチャンスを逃しているんだから、もし今回勝てないようだともうチャンスは二度と来ないかもしれない。

コースの難しさ、距離の短さ、グリーンの状態などを見ると、一番こんなコースで力を発揮しそうなのがルーク・ドナルドだろう。
まだメジャー未勝利だけど、明日は最終組より前の組であまり騒がれずに回れそうなので、先に微妙なスコアで上がって居ればこのタイトルが転げ込む確率が非常に強い。
そう見ると、若さの一発のあるジェイソン・デイも「いつの間にか」という感じでスコアをまとめていれば、後ろの組がスコアを崩して優勝に手が届く、なんて可能性が高い。

個人的に好みで応援するなら、淡々と回るスティーブ・ストリッカーにヘイル・アーウィンの残した最年長優勝の記録を破って欲しいんだけど、この厳しいコースで体力・緊張感が続くかどうか...

変則的な日程の為に3日目を最終組の後ろで回った松山は、目の前で優勝争いをするミケルソンやドナルドのゴルフを見て自分との実力差を感じた事と思う。
明日、一つでもスコアを伸ばせれば大収穫だろう。

ウッズがじりじりと落ちて9オーバー...パットが全く入らない。
ある時代に一世を風靡したゴルファー達が、パットが入らなくなって一戦から消えて行った....そんな過去から何度も繰り返された光景を、今我々は目の当たりにしているような気がする。

(タイガーは長尺パターを使われたから負けたんじゃなくて、自分が入らなくなったから負けたという事だ...さすがに自分で長尺パターを使う事はないだろうけど。)

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2013年6月14日 (金)

台風〆たグレンモア

Bu130614_214日にグレンモアで、昨年と同じ日に同じメンバーで雪辱戦を...という事で「猫と(ラーメン?)ゴルフ」のブログの風太さんが企画してくれたゴルフ。

「あと一週間」なんて時に、何と「台風3号YAGI」発生。
それが14日が近づくに連れて、見事に歩調を合わせて...最初は13日から14日日本上陸とか。
まずはややフックして中国地方に...それがストレートになって中部地方上陸....それがだんだんスライスして14日には関東直撃なんて進路になって来た。

せっかくの同じメンバーの一年ぶりのゴルフだから、雨具は捨ててしまって待っていない自分でも天気に関係なくゴルフをやるつもりで居た。
だけど、それは普通の「雨」までの話。
いくら何でも台風ではゴルフは出来ないだろう、と三日前まで思っていた。
しかし!
メンバーの一人「内気なゴルファーざんす」のホワイトタイガー54さんは、最強の晴れ女との評判。
おまけに「ニャンゴル」の風太さんも、「自分の行く所は晴れている」という自信があるとか。
...それにしても、台風じゃねえ...

なんて思って11日に台風に文句を書いたら、WT54さんが「これからYAGIを〆て来ます」と。
その翌日、YAGIは本当に大きくスライスしてOBとなり、消えてしまった...

そして今日、朝方まで霧雨が降っていたが、スタートと同時に雨はやみ、少し霧が出る。
この天気のおかげで、今の季節に暑くもならず気持ちのよい風に吹かれるゴルフを楽しむ事が出来た。

昨年は当たりが出ずに、ラウンドが進むに連れて元気が無くなって行った「ファイターあぶらげの闘魂ゴルフ日記」のあぶらげさんは、今日はインパクトの音が澄んで切れの良いショットを最後まで打ち続けていた。
スコア自体は濡れたグリーンが重かったり少し乾くと速くなったりで伸びなかったけど、去年よりずっといいゴルフをしていた。

風太さんは真面目に取り組んでいるスイング改造がだんだん結果を残し始めていて、4人の中で一番安定したゴルフをしていた。
スコアが伸びないのを気にしていたけど、ラウンド数が増えれば自然にスコアがまとまってくるレベルになっている...ラーメン食い過ぎなければ(笑)。

問題はホワイトタイガー54さんと私(笑)。
ホワイトタイガー54さん、素晴らしいショットと笑わせてくれる楽しいショットが交互に来て...
身体があちこち故障しているので、それを豊富な経験と技術で誤摩化しているのがいけないのかもしれない。
身体に痛い所が無くなれば、きっと安定した素晴らしいゴルフを見せてくれるんだろうなあ。

大問題は私。
バーディーもあれば、10叩きもあれば...一番気合いの入った17番ショートでギブアップ(笑)。

左手捻挫の痛みが少しあるので、今日は左手を固定する為に深いパームグリップで握ったのがいけなかったみたい...自業自得なんだけど。
でも、それはそれで全然落ち込まないし、今日のゴルフは楽しかった。
またもう一回雪辱戦をしなくちゃいけないようになったけど。

それにしても身体が固くなった。
いつも気にしてストレッチしないといけない、それが今日の反省点。

3人の「ゴルフを愛するゴルファー」の方々、楽しいゴルフを有り難う。

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2013年6月13日 (木)

レディースクラブ

Bu130613_2Mさんは「もう二度とやらない」と決めていたゴルフをまたやらなくてはならない羽目になった。
新しい就職先で、毎年2回ある親善コンペに参加する事になったのだ。

もう10年以上ゴルフはやっていない。
前の会社で仕事に役に立つからと20代後半から始めたゴルフ。
学生時代はバレーボールやテニスをやっていたので、そのころはまだまだ体力と運動神経に自信があった。
始めると、すぐにその飛距離は会社の他の人たちを圧倒し、小技を覚えるスピードも速く、30から始まったハンデは2年も掛からないでシングルになり、3年目には会社のトップハンデの0になった。
そうなると会社の中だけの腕自慢では物足りなくなり、まずパブリックコースのハンデをとり、ついには貯金をはたいて遠くのコースの会員権を買ってしまった。
オフィシャルハンデははじめが9、やがて2年程で5まで行った。

...上手いのは誰もが認めてくれた。
飛ばし屋としても一目置かれていた。
しかし、Mさんはコースの月例以外に試合で結果を残せなかった。
コースのクラチャンはもとより、理事長杯、キャプテン杯などの大きな競技は予選通過がやっと。
他流試合として臨んだ各新聞杯、パブリック選手権、アマチュア選手権の予戦...いずれも予選を通らなかった。
遊びで回るラウンドなら70台半ばで平気で回るのに、試合になるとまず80を切れない...どころか90叩き、100近いスコアも出てしまう。
周りの知り合いは不思議がっていたが、Mさんは原因は判っていた。
力が入り過ぎてしまうのだ...気合いが入り過ぎ、力み過ぎ、アドレナリンが出過ぎる...バレーボールもテニスも相手が居て、その相手を気合いとパワーで圧倒して勝って来た自分だった。
それが相手が居ないゴルフでは、全ての闘争心とパワーがただ自分を自滅へと導いてしまう。

あまりにもふがいない試合を続けていた40歳の時、全てをかけてパブリック選手権に臨んだ。
普段ならバックから回って2オーバーくらいでは回っている良く知ったコースで、予選通過は78くらいで回ればいい。
...一週前の練習ラウンドでは1オーバーで回った。

しかし、予選の結果は91!....何もかもが上手く行かず、焦れば焦る程深みにはまる感じ。
最後は情けなくて惨めで、涙が出てくるのが止まらなかった。

...そこでゴルフをやめた。
ゴルフに関係したものは、全部売っぱらったり捨てた。

10年以上経って、リストラにあったあとやっと入れた新しい職場のゴルフコンペ。
自分の道具を揃える気になれず、奥さんのクラブを借りてラウンドに臨んだ。
10年ぶりに握るクラブは、レディース用だったのであまりにグリップが細く、軽く、釣り竿の様にしなった。
10年前まではXシャフトのクラブを使っていたのでタイミングを合わせるのが難しく、スタートホールでは大ダフリしてチョロだった。
あまりモタモタしては失礼と思い、7番アイアン一本でハーフショットのつもりで2打目3打目を打った。
4打目も7番でアプローチして2パットのダボ。
2番は、ドライバーをゆっくりとハーフショットのつもりで打って、180ヤード程の右の土手。
そこからやはり7番2回打って3パットのダボ。
ともかくプレーに遅れない事だけに気をつけた。
アウトは、なんだかんだで51。

インになると、タイミングがあって来て200ヤード近くのフェアウェイに打つ事が出来る様になった。
アイアンも、力半分でゆっくり打てば方向性が良い事を身体が覚えた。
フェアウェイウッドやユーティリティーは一切使わず、1W.5.7.P.Sの5本だけ使って打ちたい場所を狙うようにした。
午後のインは41。

面白かった..というよりだんだん面白くなって来た。
以前の様に思い切り振り回してドラコン獲るとか、ピンをデッドに狙ってニアピンを獲るとか、バーディーを獲るなんて事は一切考えなかった。
気合いなんて全然入らなかったし、カッカとする事も無く、ただ丁寧にみんなの邪魔にならない様にとプレーしていたのに、その丁寧なゴルフが面白く感じて来た。

「本当はMさん、上手いんじゃないですか?」なんて聞かれたが、「いえいえ、とんでもありません。今日は上出来です」と答えた。
でも、顔が自然に綻びてくるのが感じられた。
ああ、ゴルフを終えて笑っている。
スコアが全然気になっていない。
...そんな事、以前はあまりなかったなあ...

「レディースクラブか...」
Mさんは今、初めてゴルフに出会ったような気持ちになっている。

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2013年6月12日 (水)

こういう事も有るワケで

Bu130612二・二六事件の後、蜂起組に若き日の柳家小さんが引っ張り出されてしまった話は、落語ファンなら詳しくご存知の事だろう。
この事件について書くのは、私の本分であるゴルフ史の関係からだ。
なんと驚くなかれ一人のプロゴルファーも蜂起組に引っ張りだされていたのだ。
彼の名は寺島繁蔵(1915・9・5〜?)。
顛末についてはGolf Dom1936年6月号に書かれているのだが、小さな囲み記事の為、長文に出来るような資料ではないし、ノンフィクションにありがちなふくらましの為の想像のやり取りを書くつもりもないのでツマラナイやも知れないが、彼の経歴を追いながら書いて行こう。

寺島繁蔵は少年期から地元駒沢に在った東京GCでキャディをしながらゴルフを学んで行った。
駒沢は安田幸吉を皮切りに、戦争による閉鎖までに数多く(二十数名)を排出し留学生も多く送り込まれた関東プロゴルフ発祥、発展の地であり、彼の先輩には安田や浅見禄蔵の他に中村兼吉、小池国喜代、三田鶴三といったトッププレーヤー達が居り、後輩には国末繁や戦後レッスン界で活躍する小松原三夫などがいた。

1932年に東京GCは埼玉の朝霞に移転して、駒沢はパブリックコースと成るのだが、彼は同地に残り新たにヘッドプロと成った小杉広蔵と先輩大塚松太郎の下でプロと成る修行を積んだ。
そして翌33年6月、関東一円の若手プロを集めて行われた相模CC新進プロトーナメントで(確認した限りでは)プロとして初土俵を踏み、後に九州で活躍する島村祐正とともに11位タイに入っている。(22名出場)

それから一年おいた1935年の関東プロ、この大会からパブリックコースのプロの出場が許され(彼のボスの小杉や川奈のプロ達はそれ以前に(から)出場しているのは特別ワクか?)、寺島も同輩の伊藤俊夫とともに出場、36Hの予選では惜しくも一打差で本戦マッチプレーの八名には残れなかったが、予選落ち上位陣による2ndフライトに進み、一回戦で駒沢の先輩瀬戸島達夫二4&3で破れてしまうも、その大柄な体格から繰り出される長打は注目を浴び、戦後も『海外のプロの様に長いクラブで停まる球が打てる』と中村寅吉や林由郎、島村祐正に石井迪夫等アメリカ遠征組がうらやんでいた。
(もっとも彼のスイングは古典的なタイプで、レッスンでは打つのではなくヘッドを通す事を強調していたという)

注目される様に成る中、彼に見事なショットをもたらす自身の恵まれた体格、そして年齢があの事件の序章へと彼を引っ張って行くのだ。

戦前の日本には兵役法が在り、満二十歳の男子は徴兵検査を必ず受けねばならなかった。
プロゴルファーの兵役(日中〜太平洋戦争は除く)と言うと、安田幸吉がどのような職かと説明した所、それでは会員で在る皇族やハイソサエティの面々が困るという事で、廃疾者扱いの第二丙種として免除された話や、浅見禄蔵が1928年に日本OP・プロ選手権を獲り『さあ、これからだ』という時に二年間ゴルフから遠ざかった不運は有名だが、別に浅見だけでなく他にも有望とされた矢先に兵役に取られたものは何人も居り、大抵は再び活躍したが、中にはトーナメントどころかゴルフ界から遠ざかってしまったものもいるようだ。

話が少しズレてしまったが、この話の主人公寺島繁蔵もご多分に漏れず徴兵検査を受け合格と成り、翌36年正月に麻布第三歩兵連隊へ入営する事が決まった。
そしてまだ右も左も解らない2月26日未明、彼らは蜂起将校達によってクーデターに駆り出されてしまったのである。
事件の際彼がどのような行動をとっていたのかは、事件の本で隊の動きを見るしかないだろう...彼の書き取りや聞き書きが存在していれば良いのだが...
ともかくとして、クーデターは29日に鎮圧、投降した寺島達は原隊において監視付軟禁という処置が取られた。

二・二六事件は当時の国内を揺るがした出来事で在った為、ゴルフ界でも当然、いや当時のゴルフ界要人には近代日本史に係る者達が多かったため必然と言うべきか、話題に成っていたが事件の内容が判るに連れてプロ達は『アレ? 麻布第三連隊と言ったら寺島のシゲが入っているトコだよな...』と彼の安否を心配し始め、平定してから大先輩の安田や瀬戸島等駒沢出身プロ達が何度も面会に赴くが、会う事が許されず(彼等には何も教えられなかったようだ)ようやく面会が叶ったのは連隊の任務であった満州警備の出発前であった。

この面会で皆は寺島が事件で蜂起組に居た事を知るのだが、その際どうであったかのかを訪ねた所、彼は『アノ時は面白かったよ』と面会者達が『どういう意味で言ったのか..』と真意を計りかねる発言を残している。

そして彼は満州へと派遣されたのだが、ここで判らない内に事件に駆り出された兵達を待ち受けていたのは『逆賊なのだから死んで帰ってこい』という扱いの中、匪族討伐が楽と感じる程の過酷な演習の日々であり、更に除隊後も彼等だけ何度も再招集がかけられていた事は、この事件について書かれた本を読まれた方ならご存知だろう。

そんな運命の中、寺島はどうなったかというと、競技記録から見ると1938年末〜39年4月間に無事除隊帰国し(陸軍は期間が二年というので三年近く掛かったのは事件か日中戦争の影響か)、39年4月24日の関東PGA第二回月例会でプロ復帰をしている。
その後も再招集に引っ張られる事無く1943年10月19日、
戦前最後の関東PGA競技会、藤沢CCお別れ競技(プレー後の総会で活動中止が決まる)までトーナメントに出場しており、この年の関東プロでランナーUPに成っている。

彼が戦時中ぎりぎりまでプロ生活が出来たのは、政界に係っているゴルファー達の見えない取りなしが有ったのだろうか...
(浅見の時には期間の短い陸軍に成るよう取りなしがあったというが)

ともあれ、寺島は戦争を乗り切り、1960年頃まで関東を代表するプロとして、そしてシニアトーナメントでも活躍したが、惜しむらくは全盛期がゴルフもままならない戦中の暗黒期から関東PGAは復活したものの大トーナメント開催には至らなかった時期と重なってしまい、上位に行く事は有れどもメジャータイトルを獲る事は叶わなかった。
(シニアでもあと一歩の所であった)

小さな囲み記事からムリに引っ張った感のあるこの文だが、『掘っくり返し屋』としては歴史に埋もれた出来事をもう一度陽の目に当て皆さんにご覧頂けたのは幸いである。


主な参考資料
*Golf Dom  1933ー43年合本
*Gof Dom  1933ー38・40年合本
*日本プロゴルフ協会30年史、50年史   日本プロゴルフ協会
1945−85激動のスポーツ40年史・14ゴルフ ベースボールマガジン
*JGA70年史  日本ゴルフ協会 1994

*はJGA資料室にて閲覧


(この文の著作権は松村信吾氏に所属します)

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2013年6月11日 (火)

台風3号さんよ...

Bu130611_2まあ、14日のゴルフに合わせて微妙に動いてるなあ...台風3号。

例年、雨が少なくて困っている頃にやって来て、空っぽのダムや乾いた田畑に恵みの雨をもって来てくれる台風なんだけど。
発生したときから微妙なコースを辿っている。

今の位置からフックするかまっすぐのストレートコースなら関東は外れるか...と思っていたが、この台風3号スライスして来た。
おまけに、飛ばないので刻んで来て、13・14日には東海沖に停滞するときやがった。
そして、風より雨に注意とか。

まだゴルフ場天気予報では、14日は「曇り一時雨」だけど、予報によれば関東地方に近づいて停滞するようだから、大雨になる可能性も高い。
今度のゴルフのメンバーには晴れ女も晴れ男もいるようだけど、台風に勝てる程強くはないよなあ(笑)。

でも、まあ台風てのは気まぐれなヤツが多いから、空振りしたりシャンクしたりする可能性もある。
どうだろう、決断するのは13日?...それと12日?

普通の雨じゃなくて台風なんて...ねえ。
練習に行く気が...

難コース攻めまくり用のロストボールは用意したのになあ。

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2013年6月10日 (月)

グリーンはコースの顔である

Bu130610「グリーンはコースの顔である。それ以外の物はみなアクセサリーにすぎない。」...チャールズ・マクドナルド。
チャールズマクドナルドは、USGAの初代副会長であり、第1回全米アマのチャンピオンでもある。

これには異論も多いだろう。
その上さらに自分の勝手な解釈であるから、むしろ暴論に近いので異論の数はすんごい数だろうけど、それは無視。

そう、勝手に断言する。
「グリーンのつまらないコースは、二度と行かない」
「グリーンの状態の悪いコースは、金を返してもらいたい」
「悪いけど、2グリーンのコースはちゃんとしたコースとは思わない」
「ボロッチいコースであっても、グリーンの状態が良く面白いコースは、最低限納得して楽しめる」

超個人的「良いグリーン」とは
「ワングリーンである事」
「速い事」
「出来れば毎ホール変化がある事(全部砲台だとか受けグリーンとかじゃなくて)」
「良いグリーンにしようというキーパーの人の気持ちが感じられる事」

どんなに名門だとか、有名だとか人気があるとか言うコースでも、まず2グリーンのコースは「残念」の気持ちが強い。
最近行ったコースでは、大原御宿が2グリーンだった。
井上誠一設計で明るく広々としたリゾートコースだ。
プレーして楽しんだけれど、このコースがもし1グリーンだったらどんなに素晴らしかったか...なんて考えてしまう。
もちろん昔のグリーンに対する技術では、夏に高温になる地域でのベントの1グリーンというのはほぼ不可能だったろうからやむを得なかったんだろうけど。
でも、ゴルフというゲームの面白さの原点から言うと、ティーショットでの広いフェアウェイからセカンド、サードショットと使う番手が短くなるに連れてターゲットが狭まって行くのが本来の姿。
グリーンを狙うショットは最も技術と精度と緊張感を必要とするショットでなくてはいけない...それが2グリーンのコースだと、最後の場面でターゲットが急に広くなって間の抜けた緊張感のないショットになってしまう。
以前2グリーンのコースがほとんどだった時代には、グリーンを狙うショットの定石は「グリーンとグリーンの間を狙え」だった。
これはそれならミスをしてもアプローチ勝負になり大怪我をしないという事だが、ゴルフというゲームの本来の攻め方とは大きく異なっているものだ。

それからどんなにレイアウトが良くて、1グリーンで奇麗なコースであっても、下りラインにつけたボールが下りの途中で急ブレーキで止まってしまうようなコースでは最低。
上りラインには「打つ勇気」、下りラインには「緊張とスリル十分のタッチ」を感じるようなグリーンじゃなくては、グリーンのどこに乗せても同じになってしまう。
最近は以前はグリーンが速い事で名の知れたコースでも、営業会社が変わってからは営業優先(多くの客を回す)の為にグリーンを遅くする所が増えてしまって、つまらないコースが多くなった。

以前の古い2グリーンのコースは受けグリーンというのが多くて、グリーン奥は絶対ダメでボールは手前に、というのが多かった。
また全て砲台グリーンで、アプローチもそのコースに向いたアプローチがある、というコースも結構あった。
これは実際には難しいのだけれど、自分的にはつまらない。
はじめから1グリーンとして造られたコースは、その辺のグリーンの多様性があって面白い所が多い。
ただグリーンの状態は千差万別だけど。

そして、キーパーの人の苦労....いいコースなのに遠くて入場者が今ひとつ...そんなコースが結構ある。
多分、人手とお金が十分にかけられないんだろう...雀の帷子が出てしまったり、芝が薄くなっていたり。
でも、実際にプレーすると十分に速さといい転がりが体験出来る。
こういうコースには、また行きたくなる。
少なくとも名門という名の下で、バタバタとボールが飛び跳ねながら転がって行った某コースよりずっと好感が持てる。

「グリーンさえ良ければ、あとはみなアクセサリーにすぎない」とは言うけれど、個人的にはやはりアクセサリーもちゃんとしていた方がいい。
ただし、高額で立派な物だらけより、ナチュラルな自然なものが好ましい。
立派な松の古木の林より、四季折々の変化が楽しめる雑木林の方が自分は好きだし、立派な橋のかかるクリークよりも水音の涼しい小川がいいし、錦鯉が泳ぐ池よりもオタマジャクシが遊ぶ池がいい。

まあ、極個人的なコースの好みてな訳だけど、はっきり言って自分はパットは上手くない。
先に書いた個人的に好みの「速くて変化があって状態のいいグリーン」だと、40パットを平気でする可能性が高い。
逆に嫌いな「重くて単調で打てさえすればいい」なんてグリーンだと30パットを切る可能性が高い。
でも、少ないパットで少ないスコアで、なんてのが今の自分のゴルフの楽しみではない。

残り少ないゴルフ人生、「いくつ少ないスコアで回るか」よりも、「どのくらいそのラウンドを楽しめたか」が一番大事な楽しみになっている。
まだまだ回った事のないコースは大量にある。
その中から「がっかりするコース」を避けて「回って良かった」というコースを探すポイントが、このチャールズ・マクドナルドの言葉と同じなのだ。

まず良いグリーン、そして面白いレイアウト...そうそう「料金」も一番大事な要素だった。
異常に高かったり、高額なツーサム割り増しを取るようなコースは...行かないし、行けない。

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2013年6月 8日 (土)

その後の左手

Bu1306085月24日のラウンドの際に痛めてしまった左手は、その後ずっと安静にしていてクラブは握っていない。

本来なら真夏の暑さが来る前の、梅雨の中休みの晴天の日は気持ちの良いラウンドをする絶好機なんだけど..
先日の九州旅行でかなり金を使ってしまった為と、この左手の故障の為に14日までラウンド予定はない。

それでも14日に迫ったブログの友人達とのラウンドの為に、久しぶりに左手でクラブを握ってみる。
痛めたのはラフの中のボールを、強引にフックをかけて90度程曲げようと言うショットのとき。
いつものように左手はややかぶせてグリップしていたのを、フェースをかぶせた上にさらにインサイドから左手をスナップして強烈なフックにしようとした。
それがインパクトの前に長く伸びたラフの草(想像したより遥かに粘って強かった)がネックに絡まり、急ブレーキがかかると同時にクラブヘッドの軌道も変わり、ほとんどネックに当たるシャンクとなった。
この時スナップを利かそうとしていた左手の手首が「ギクッ」となり、痛みが....

その後のラウンドを痛みをだましだましプレーしてしまった為に、ラウンド後はクラブを左手一本では持てない程の痛みになった。
手首の捻挫という意識はあったので、その後は一切クラブを握らず、左手は極力使わないようにして来たので今は痛みはない。
しかし、今までのようにグリップしてクラブの重みを感じると少し違和感があり不安があるので、グリップを変える事にする。
まだスイングはしていないが、グリップして痛みを感じないのが今までの「ややストロンググリップ」では無く、所謂「ウィークグリップ」。
これで一切左手のコックを考えずに、左手首を全く動かさないつもりで腕の内転から外転で振り抜けば痛みは来ないようだ。
ゆっくりとした動きで確認すると、まるでパーシモンの時代のスイングのよう。

ドライバーもアイアンもヘッドが大きくなったために、インパクトゾーンでのクラブヘッドの動きを大人しくして球筋を安定させる、というのが今の主なスイング理論の基本だけど、このウィークグリップはインパクトの前後でヘッドが大きくターンする。
極端に言うとフェースが表から裏へとひっくり返る訳だ。
実際には左手の痛みを出さないようにスイング出来れば問題ない訳なので、もう少し左手を安静にしたあと来週の火曜か水曜に少しボールを打ってみる。

自分のゴルフは昔から、どこか怪我をしているときの方がスコアは良いから心配していないが、多く手首を使うトラブルショットの楽しみは諦めるしかないなあ...
そんな訳で、14日のゴルフは大人しく曲げたボールでフェアウェイキープを目指すしかない。

いっそ、パーシモンでやってもいいかも...

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2013年6月 7日 (金)

やってもいいよね

Bu130607「ゴルフは何歳から始めても遅すぎる事はない」、そんな言葉があなたの残した本に書いてあった。

...ゴルフというものを嫌いだった。
結婚してすぐにあなたはゴルフを始めた。
それからは土曜や日曜はほとんど家に居なくなった。
半分は会社の仕事とは言え、子供が生まれてからも、学校に行くようになってからも、休日を子供と一緒に過ごした事なんかほとんどなかったはずだ。
そんなに裕福な暮らしじゃなかったのに、あなたの部屋にはゴルフの道具が溢れ、廊下まで大きなバッグや練習道具が占領するようになった。

私はみんなに「ゴルフウィドウ」と呼ばれ、時々あなたの知らない時にあなたのゴルフ道具に八つ当たりしていた。
子供の手が離れたころから、何度かあなたにゴルフをやらないかと誘われたけど、もうその頃には意地になってゴルフだけはやらないと言い続けた。
そのうちに、あなたも私を誘うのは諦めて、相変わらず休日のゴルフを続けて行った。
夫婦喧嘩もたまにしたし、親の病気や介護、子供の結婚や孫の誕生などの生活のリズムの変化もあった。

それでも、あなたがいない休日は当たり前で、それ以外はそれほどの問題も無く人生は過ぎて行った。
...あなたが、突然いなくなるまでは。

幸いな事に、あなたが残してくれたものでこれからの生活に大きな心配はない。
でも、休日にいないのは慣れてはいても、普通の日にもずっとあなたがいないのには慣れはしない。
流れが止まったような日々が続く中で、周りの友達や近所の人が気晴らしの遊びに誘ってくれた。
色々なサークルや、地域の活動、リクレーションの勧誘...
一応誘われた物を経験しては見たが、部屋の中でする物はあまり気晴らしにならなかった。
やってみて面白かったのが、外でやるゲートボールと、グラウンドゴルフ。
身体を動かす事が、想像以上に気持ち良かった。

少しの間、近所の人に誘われたゲートボールのチームに入ってみた。
見かけよりルールや作戦が複雑で、結構熱中したけれど...チーム戦というのが気になった。
対抗戦で試合になるとチームの作戦が重要な要素になるが、それは別の言葉で言えば「誰かのせいで負けた」なんてことになる...そうはっきりは言わないが何となくそう言う雰囲気になるのが嫌だった。

ならば、グラウンドゴルフ...これはボールを結構強く打つ事が気持ち良かったけれど...

どうせなら、ボールが空を飛ぶゴルフをやってみようか...
ふと、そんな気持ちになった。
チーム戦じゃないから誰かのせいにならなくて済むし。

でも、ゴルフならあなたに誘われた時に始めていれば良かった。
あのころはそんな気持ちになれなかったけど。
...ならば、「今」が私がゴルフを始める「時」なんだろうか。

「ゴルフはいつ始めても遅すぎると言う事はない」
この言葉を励みにして、自分の人生の最後の遊びにして行けたらいい。
まだ、打ち方もルールも知らないし、道具も服もないけれど。


ああ...やっぱり、あなたがいる時に始めていれば良かったね。
これからあなたの経験した事を、私も経験してみたい。


ごめんなさい、あなた。

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2013年6月 5日 (水)

オリンピック,,,ではなく??

 

Bu130605_4

一回目の1900年パリ大会、04年stルイス大会、そしてR&Aのクレームで中絶した08年のロンドン大会については国内でも摂津茂和先生の『偉大なるゴルフ』、小鷹信光氏の『気分はいつもシングル』、夏坂健氏の『ナイスボギー』、大塚和徳氏の『世界ゴルフ見聞録』等で紹介されて来たし(一通り書かれているのは一番新しい大塚氏の著書だろう)、英字版ウィキペディアでパリ・stルイス大会の競技記録が掲載されているのでご覧になった方も居るだろう。
さて、ここに来て『1936年のベルリン大会はどうしたの? 行われたと本で読んだ事が在るよ』と疑問を呈する方が出てくるハズだ。私も最近まで一番新しい大塚氏の記述やウィキペディアの競技記録が、1904年まで(08年の予定も)しか載っていない事を疑問に思っていた。
このベルリン大会の話が国内で紹介されたのは、先記の摂津先生の『偉大なるゴルフ』36章、『ヒトラーのゴルフ秘話』が最初であろう。
それによると氏が創立会員であったゴルフ収集家協会(GCS)の会報で、1951年ロンドンの画廊で行われた英国国内の各スポーツ団体による優勝トロフィ展示会で、イングランドGUが1936年度ベルリンオリンピックでヒトラーが寄贈した銀のトロフィを出品した話を紹介している。
そこには競技はドイツの保養地バーデン・バーデン(1911ー12、30年ドイツOP会場)で、各国二名ずつのチームによる72Hメダルプレーで行われ、第三ラウンド終了時にドイツチームが優勝しそうだと言う報を聞いたヒトラーは喜び、直接トロフィを渡す為バーデン・バーデンへ赴こうとしたが、途中で英国のトーマス・サースク、アーノルド・ベントリーのチームが奮戦し逆転優勝を遂げた一報を聞き、彼は機嫌を損ねバーデン・バーデンへ向かう列車をベルリンへと引き返させたという。この話を読んだ摂津先生はイングランドGUに、そのトロフィの写真をJGAミュージアムの為に頂けないか、と連絡を取ったが返事が来ない、としている。
その次には夏坂氏が『ナイスボギー』8番ホール(章)で、『ヒトラーの大ダフリ』という題でこの話を書いているが、そこには22カ国からの参加が在り、ヒトラーの用意したトロフィは準銀の重厚華麗な物で後年展示された時には非常な高値での購入希望があった程だと『タイム』紙が書いたという。
競技の方は二人の72H合計スコアで競い、ドイツチームの二人はハンス・リッターとクルズ・ロハという名で二人とも英国留学で腕を磨いたといい、第三ラウンドのスコアが前者78・81・75、後者は77・74・78で英国チームに5打差をつけていたが、63Hで同点、終わってみたら3打差で逆転負けをしたとある。
この二人の書き物(摂津1985編、夏坂1996ー97年執筆)以降、この件は最近発売された漫画の一編に出ている位で、忘れられたのか話題に出てこない。
先記の通り私はこの大会についてある種の疑問を持っていたが、今年になってこの大会をリアルタイムで報じた記事を発見した。こういった事は私に時々起きるモノで、今回は別件で当時最大のゴルフ誌『Golf-Dom』1936年4ー12月号の合本をJGAで読んでいた所、見付けたのだ。
当時国内の各ゴルフ誌に欧米の在留邦人ゴルファーが情報を寄稿しており、この話もそれに当たるのだ。
内容を追って行くと、バーデン・バーデンでの競技はオリンピックと直接の関係はないが、間接的には在り、しかも大会前から話題となっていた。
まず5月号の記事によると、ドイツゴルフ連盟会長カール・フォン・ヘンケルが8月のオリンピック直後に各国二人のチームによる72Hメダルプレーの国際大会を開くと発表した、とある。
次に7月号では大会の準備が完了し、世界各国に呼びかけを行った所、英国・カナダ・オーストリア・スイス・チェコスロバキア・イタリア・メキシコの七カ国が参加表明、DGVはもっと多くの国が参加するように勧誘を続けている、とあり会場はバーデン・バーデン、期日は8月26ー27日に決まったと報告している。
9月号になるとこの話題の寄稿文が二つ載っており、一つ目の岡本隆司氏のコラム『オリンピックとゴルフ』ではこのトーナメントについての紹介文と、ナチスのスポーツと国防および1940年度東京オリンピックに反対する(軍部)への批判とその際にドイツ以上の招待トーナメントをしようではないか、という訴えで〆ている。
二つ目は中島信次氏の『欧州通信』にヒトラー寄贈の賞牌の写真が掲載されており、それが直径45cmで中央が銀、外周が金で造られたお盆で、金の部分には細葉のレリーフに8個の大きな琥珀の多角球が実を表す形で取り付けられている。
中島氏はオリンピックの日本選手達がベルリンに集合しているのに触れ、今回の国際競技にも日本からの参加者があったらどんなに素晴らしい事であろうか、とも書いている。
さて、いよいよ大会の詳細に入るが、これは11月号の『欧州通信(2)』(中島氏著)に書かれているので、それを追って行こう。
競技期間は8月20−27日間に改められた。これは72Hメダルの他に六人チームによるフォアサム・シングルスマッチが加えられた為だろう。
参加国は新たな参加と取り下げが重なり、結局英・伊・仏・和蘭・チェコスロバキア・ハンガリー・そして主宰のドイツのヨーロッパ七カ国と成り、六人チーム戦は独・仏・和の三か国で行われた。
さて、会場のバーデン・バーデンについて触れると、山間に造られた起伏の激しいショートコースで、1910年に英国の有名なライター、ロバート・ブラウニングが日本の神戸GCについて書いた際に引き合いに出すくらいだったから、過去三度のドイツOPの優勝スコアが278・277・266という低スコアであった事をご理解いただけるか。
大会のヤーデージはメートルから換算すると4854Y強、パーはアウト32・イン33の65であった。
規模からすると物足りなく見えるが、大会にはヒトラーからの賞牌に加えスポーツ大臣がチーム戦の為に19世紀の会場の町並みが描かれた陶製のカップが寄贈された事から盛り上がりを見せ、コースからドイツチームの主将(メダルではプレーせず)がラジオ放送で挨拶した位で、寄稿者の中島氏は騒ぎは相当なモノであったと記している。
そして始まったチーム二人でのメダル競技は第一ラウンド、英国組(ベントレーとサースク)が73・70(スコアは名前順)の143で独組(BEKERATHとHELLMERS)の68・75と並び、三位に伊チームの73・72ー145、仏148、和蘭149と続き、チェコ159、ハンガリー178と大きく出遅れた。
第二ラウンド、英144で287、仏も144で回り292、和蘭71・69で189と浮上する一方、伊は73・82で300と差が開き、チェコは315、ハンガリーは351で圏外、そんな中で独が67・72で182と英国に五打差を付けてトップに立った。
このラウンドからチーム合計方式の特徴、あっという間に差が開いたり追い付いたり、ベストボールと違って一人の崩れがパートナーの足を大きく引っ張る面が表に出て来ている。
第三ラウンド、圏外に居たハンガリーチームは88・79で来ていたLAYBERが棄権し、相方で一番スコアの悪かった(90・94)LAUYIもラウンド終了後(97)に棄権をしている。
残る面々、和蘭チームも76・74と不調で大きく後退、チェコも457で圏外のまま、独も72・76とこれも芳しくなく430、その一方で英国はサースクの65が効いて135の422で逆転、仏も68・69の137で429と浮上、勝負がこの三チームに絞られた。
最終ラウンド、独チームはBEKERATH・HLLMERS共に70を割れず71・73の144で合計566、仏チームはCARHIAN・LEGLISEが66・71=137とベストスコアを出して566、そして英チームはベントレーが75と崩れかかったがサースクがもう一度65を出し(本文ではベンテレーが65を、と在る)140と踏み止まり合計562で仏チームの追撃をかわして優勝を遂げた。
そして六人チーム戦の方は仏が二戦全勝により優勝をしている(二位独一勝一敗、三位和蘭二戦全敗)。
かくして大会は終了したのだが、寄稿者の中島氏はスコアの悪さ、アンダーパーを出した者が一人も居ない事から、わびしいモノであったとし、要因はコースだけの所為ではなく参加者全員がオリンピックの余興的な催しという(気負いに欠く)気持ちでプレーをしていたのでは、と考察しながら『大した選手が出場した訳ではないので大きなモノを臨む方が無理かもしれないが、大山鳴動して鼠一匹の感が亡いでもない』と評し、チーム戦もなんだか泥試合の連続で面白くなかった、という総評も報じている。
こうは書かれているモノの、この名字のみ記載されている参加者達は母国のトーナメントで何らかの成績を出しているのでは、と気になりもう一度JGAで英国のゴルフ年間『Golfer`s  Hand Book』1936・40・56年版を開いて調べてみた所「これは!」というような記録が出て来た。
が、参加者達はベントレーとサースクを除いて名前が判らない為推測という形に成ってしまった。しかし、下の調査結果をお読みいただければ幸いである。
英国チーム(BENTOLEY &THIRSK 合計562、優勝
・BWNTLEYことアーノルド・ベントレー(73・74・70・75=292)は、摂津先生の本では1935年のヨークシャーAM勝者とあるが、年間では1935ー36年のランナーUPと記されている他、1938年度フレンチオープンAMのランナーUPでもある。彼の同世代の親族かH・G・BENTLEYという選手はヨークシャーAM3勝、ドイツオープンAM4勝(1933ー37ー39)、フレンチオープンAM2勝(1931ー32)を始め、1934ー36年度ウォーカーカップ代表と成ったトッププレーヤーであった(顔が似ているような...)
・THIRSK事トーマス・サースク(70・70・65・65=270)は、摂津先生の記述通り1934年度ランカシャーAM勝者である事を確認。
仏チーム(CARHIAN&LEGLISE 合計566、2位
・CARHIAN(72・71・68・66=277)、彼は一文字多いのだが1936年度フレンチオープンAMであのマイケル・スコット卿(最年長全英AM勝者)を破り優勝した、M・CARLHIANと同一人物だろうか? 彼は50年に同大会ランナーUPとなっている他、フレンチネイティブAMで5勝(1932.34ー36)ランナーUP3回(1937.47、50)を遂げている。
・LEGLISE(75・72・76・71=289)彼は1939年度フレンチオープンAM優勝、ランナーUP2回(1937、47)、同ネイティブアマ1勝(1937)、ランナーUP3回(1935、38、49)のJ・LEGLISEか。
独チーム(BECKERRATH&HELLMERS 合計574 3位)
・BECKRATH(68・67・72・71=278)彼は1938年ドイツクローズドAM勝者で(52年ランナーUP)、37年には同オープンAMランナーUPのL・VON・BECKEREATHと同一人物だろうか。
・HLLEMERS(75・72・76・73=296)、彼はドイツクローズドAMに1924年優勝、翌25年にはランナーUPとなったC・A・HELLMERか。
伊チーム(LUZZATTO&FRASCHINI 合計587 4位T)
・LUZZATTO(73・73・66・72=284)この性のチャンピオンは当時二人おり、一人は1937年イタリアオープンAM、36ー38年同ネイティブAM、36年スイスAMオープン勝者のL・LUZZATTO、もう一人は34年イタリアネイティブAM勝者のG・LUZZATTOであるが、どちらだろうか、または第三者か?
・FRASCHINI(72・82・74・75=303)、彼は1935年のイタリアオープンAM(50年ランナーUP)、32ー33年ネイティブAMを獲ったTOTI・FRASCHINIか。
和蘭チーム(SCHILL&LIMMEN 合計587 4位T)
・SCHILL(74・71・76・73=294)とLNMMEN(75・69・74・75=293)は自国トーナメントの優勝及びランナーUP記録に名前が記載されていなかった(他のトーナメントは検索中)
チェコスロバキアチーム(TONFER&SCHUBER 合計602 6位)
・TONFER(76・70・68・74=288)はチェコスロバキアOPAM2勝をしたH・TONFERか。
・SCHUBER(83・76・74・81=314)は、1932年チェコスロバキアOPAMランナーUPのS・SCHUBERか。
ハンガリーチーム(LAUBER&LAUYI NR 最下位)
・LAUBER(88・79・NR)は、ハンガリーOPAM8勝(1923−24、26、30−34、38)のD・LAUBERか。
・LAUYI(90・94・97・NR)彼については優勝及びランナーUP記録は見つからなかった。(他トーナメントは検索中)
といった具合であるが、出場者達が私の推測通りこのチャンピオン達と同一人物であったとするならば、侘しいとか面白くなかったと言われたこの大会も、ヨーロッパのゴルフ競技史において重要なモノであったという見方が出来るのではなかろうか!?
私の報告書は以上だが、このバーデン・バーデンの大会が本当にオリンピック競技と記された物と同一か、という疑問については次の事
・会場がバーデン・バーデンである事。
・競技方法が各国二名による72Hメダルである事。
・ヒトラーから大会の為にトロフィ(定義として盾も含まれる)が寄贈されていた事(大会では件のお盆の他に銀の?お皿に二つのコップを組み合わせたトロフィも贈られた)
・優勝者の苗字がベントレーとサークスである事。
と合致している事が多く、何より
・オリンピックの公式記録で最後の開催は1904年大会と報じられている事。
この事から私は摂津先生がお書きになられたベルリンオリンピック、ゴルフ競技は、このDGV主催国際トーナメントの事であったと断定出来るのでは、と考えている。
あとは参加者のフルネームを調べるべく、海外の圧死の調査やドイツの協会に訪ねなければならないが、ドイツ語が出来ないのが..
同国にすんでいた方に代筆を頼むべきか!?
主な参考資料
Golf Dom           1936年4ー12月号合本より
*偉大なるゴルフ        摂津茂和 ベースボールマガジン社 1985
ナイスボギー(文庫版)    夏坂健 講談社 2000
*Golfer`s  Hand Book     1936、40、56年版
*はJGA資料室にて閲覧 他は所蔵本
2013年5月7日
松村信吾
(この著作権は全て松村信吾博士に所属します。)
(2013年6月5日 大叩き男タイプ...疲れた...タイプミスがあればお知らせください)

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2013年6月 4日 (火)

ゴルフを見れば見るほど 人生を思う

Bu130604_2「ゴルフを見れば見るほど 人生を思う。 人生を見れば見るほど ゴルフを思う。」...ヘンリー・ロングハースト。
ヘンリー・ロングハーストは、20世紀半ばのイギリスの高名なゴルフ評論家。

ただし、これは競技ゴルフやプロゴルフという、数字の少なさを争って名誉や賞金の獲得競争をする世界とは全く別の話。

ゴルフというゲームを少し長い期間楽しんでいると、似たような感慨を誰もが持つようになる。
あまり運動をしなかった人にとっても、他のスポーツの経験が多少あるものにとっても、ゴルフ程思うように行かないゲームは無い。
およそ本能的に「やろう」とした事は逆の結果を招く...景色が心を動揺させ、ライと天候が変化を無限に付ける。
ボールは自分からは動かずに、全責任をゴルファーに負わせて、言い訳を許さない。
努力はする...ほぼ全てのゴルファーは、もっと上手くなろうと練習を惜しまないのに。

誰もがスタート前には胸一杯の夢と期待を持つ。
しかし、ラウンドが進むにつれ甘い夢は破れ、淡い期待は崩壊し、この日のための長い時間をかけた努力は何の結果も残さずに虚空に消える。
幸運は他の人にばかり訪れ、不運は自分にしがみついて離れない。
失敗の記憶が自分の心を圧迫し、たまに訪れるチャンスにも自分を信じられず、また失敗の記憶を積み重ねる事になる。

そんな状態の時に、ふと「これは自分の人生みたいだ」なんて思ってしまう。
自分は、まるで悲劇の主人公のようだ...まあ、自分が可哀想と思いたいだけの話なんだけど。
本当は、ラッキーだってあった。
それよりもアンラッキーに心を奪われているだけ。

だから、往々にして「ゴルフが人生に似ている」なんて思うのは、スコアが悪いときばかり。
スコアが良い時に「ゴルフが人生に似ている」なんて思う人はほとんどいない。

だから「ゴルフを見て人生を思う」なんてのはまだ半分。
「人生を見て、ゴルフを思う」になって、本当にこの言葉は心に響いてくる。

18ホールの旅。
その間の上り坂と下り坂。
人生の浮き沈み、スコアの浮き沈み...ラッキー・アンラッキーなのか運命なのか。
「もう、あと何ホール」なのか、「まだ、あと何ホール」なのか。
だから、ゴルフはラウンドごとに面白い。
泣き笑いのラウンドに、泣き笑いの人生だ。


鹿児島のツレよ...

本当に、お前とラウンドして夕日のフェアウェイを歩いてみたかった。
残り何ホールかを、精一杯楽しむために。

...たとえ、「フォアー!」って声上げるショットばかりだったとしても、な。

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2013年6月 3日 (月)

巡礼(番外)

Bu130603_2ちょっと重い旅になりそうだったので、何度も行けない九州をそれなりに楽しむ事も考えていた。

最初に来た10年前は、阿蘇や長崎、天草の観光も少しした。
2年前の2度目の九州は、もろにあの東北大地震に重なってしまい、観光どころではなく必死のとんぼ返りとなってしまった。

今回は、ヤツの体調や金子さんの奥さんの都合が判らなかったので、観光地の観光というより急に空いた時間に行ける場所の見当をいくつかつけていた。
その一つが「端っこの駅」。
自分は特に「鉄っちゃん」ではないのだが、廃線跡や所謂「秘境駅」なんてモノに興味がある。
仕事が終わって寝る前の晩酌の時、「旅チャンネル」でやっている「秘境駅」シリーズや廃線跡を訪ねる番組を見ながら飲むのが好きだった。

旅する事が大好きなのだが、時間的にも経済的にも自由な旅をする事は不可能に近く、せっかくのキャンピングカーで自由な流れ旅をというのは今現在夢のまた夢。

そこでこの九州の旅は、おんぼろレンタカーで窮屈な移動ではあるけれど、ヤツに会う時間や金子さんの所に行く時間以外はそんな行きたかった場所に極力立ち寄る事にしていた。
私が行きたかったのは、色々な駅。
うちの奥さんは「お城」...(最近は娘共々「歴女」になってしまって、よく娘と東北の城巡りなどしている)

まずは到着した日が半端な時間しか無く、次の日にヤツに会う前に一走り...鹿児島からJR指宿枕崎線の「西大山」駅に行った。
ここは「鉄っちゃん」の間では、沖縄にモノレールが出来るまでは「日本最南端の駅」として有名で、秘境駅としても知られていたと聞いていた。
あいにくの曇り空で正面の開聞岳の姿は見えなかったが、西大山駅自体は想像よりずっと奇麗な状態で静かに佇んでいた。
以前旅チャンネルの「秘境駅」で見たよりは、ベンチもトイレも奇麗で、花壇の手入れも行き届き、看板や説明図も整備されていた。

そしてもう一つ、長崎の松浦鉄道の「たびら平戸口駅」。
ここも沖縄のモノレールが出来るまでは、「日本最西端の駅」として有名だった駅。
ただ、ここは車通りの多い普通の道路の側にある町中の駅だった。
本州最西端の碑が建っている意外、「ここが最西端の駅か」と言う感慨に浸るような雰囲気は無かった。

でも、車で走っている時に島原鉄道の廃線跡や長崎や熊本などの路面電車を見ると、心が動く。
路面電車には中学・高校と都電で通学した思い出が蘇るし、雑草が生い茂る線路跡にはかって栄えたものの夢の跡を感じて胸が痛む。
...もう、軽い「鉄ちゃん」になっているのかもなあ...

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2013年6月 2日 (日)

巡礼...2

Bu130602_2もう少しヤツをどこかに連れて行きたかったのに...
そんな思いを残して、夕方の長島から天草へのフェリーに乗った。

29日夜には天草で一泊して、30日に雲仙にフェリーで渡り長崎を目指す。
鹿児島で借りたレンタカーはなんと走行距離13万キロのボロい大衆車で、運転席が軽のワゴンーRより狭く窮屈で、またカーナビの反応が遅かった。
乗り降りする度に頭をぶつけ、腰を痛め、1時間ごとに腰を延ばさないと座っていられない。

第2の目的地の「田舎暮らし協奏曲」の金子さんの所には、何時に着くのか判らないために奥さんには連絡しないで向かう事にした。
奥さんがいらっしゃらない時には、10年ぶりの金子さんの世界を見るだけでいいとも思っていた。

目印はペニンシュラオーナーズゴルフクラブの入り口。

10年ぶりに見た「チンチン像」の金子氏は、少し頭が傷んでいたけどカッと目を見開いて、相変わらず胸を張って踏ん張っていた。
残念ながら奥さんはいらっしゃらなかったけど、10年前より一回り大きくなった山椒の大木の下、共に座って海を見ていた手作りのテーブルとイスは、確かに十年分古びてそこにあった。

気持ちの中で先に行ってしまった金子さんに線香を捧げ、「また来ます」と言って帰った10年前の約束をやっと果たせた思いになった。

...自分は金子さんの友人ではない。
その証拠に、彼のブログの交友録や友人の中に自分は出てこない。
昔、金子さんが週刊ゴルフダイジェストの編集長をしている時に知り合い、そこから会員権の本の編集長をしていた頃にもよく話をした。
しかし、残念な事に一緒にゴルフをする機会は無かったし、10年前に訪ねて行くまで一緒に酒飲む事も無かった。
個人的に「親しかった」とは言い難い付き合いだったんだけど、多分男としての生き方に共感していたんだろうと思う。
「田舎暮らし」なんて、そんなに甘くはない事は百も承知で踏み切って、自給自足生活を築き上げ、百姓.漁師・エッセイスト・音楽家に木工家・蕎麦に酒にコーヒー....いわば遊びに徹底した生き方を50才から始めた男。
唯一の問題は現金収入の道が少なすぎると言う事...子供がいては絶対に不可能な暮らしと言っていた。
...正直言って、10年前に来た時に「自分たちには絶対出来ない」と確信した。

楽しい一夜を過ごして、帰る時に「また来ます」と自分が言った言葉が、ずっと気持ちに残っていた。
「本当に健康な人だから」と、10年の時間を流してしまった。


「ちょっと来るのが遅過ぎました」
「もう一度酒が飲みたかった」
そう言って、彼の世界に頭を下げた...

後で奥さんから電話があって、またゆっくり彼と作り上げた世界を引き継いで行くつもり、との事だった。
...10年前に奥さんが「ここは5月の新緑のころが一番美しい」と仰っていたのを、改めて思い出した。

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2013年6月 1日 (土)

巡礼

Bu130601「まるで巡礼の旅ね」
ヤツの世話を唯一している、ヤツの姉さんにそういわれた。
2年ぶりに鹿児島のヤツを見まい、10年ぶりに長崎の「田舎暮らし協奏曲」の金子さんに線香を上げるつもりの旅の事だ。

まあ、宗教的な「巡礼」の意味は、聖地を巡り自分の宗教意識を高め、宗教上の恩恵にあずかろうという行為なんだけど...そんなことで少しでも自分が救われるという意味では共通しているかもしれない。


29日の朝9時少し前に、ヤツの入院している病院の受付に着いた。
少し待って大きな歩行器を押してゆっくり歩いて来たヤツは、2年前より痩せてすっかり年をとってしまったように見えた。
ヤツに向かって手を挙げると、一瞬笑って危なっかしい格好で右手を少し上げた。

こまごまとした外出の際の注意を聞いた後、まずどこに行きたいか聞いた。
...何か言葉を発するのだが、どうしても意味が聞き取れない...理解出来ない。
こっちは焦り、ヤツも困った顔をするのだが、意味が判らない。
そこで、「まず自分の家に行こう」と言うと、コクンとうなずく。
ヤツの家の近くに住むお姉さんに連絡し、家を開けておいてもらう。

その家に向かう途中、2年前ははっきりと家までの道を指で示せたヤツが、途中で道が判らなくなり途方に暮れる。
そこでカーナビに住所を入れてなんとかたどり着く...

ヤツの両親の代から住んでいた大きな家に入ると、本当にホッとした顔をする。
姉さんが「2年前にお二人が連れて来てくれて以来なのよ、家に入ったの」と。

「え?」
「ヤツの子供達は、見舞いに来ないんですか?」
「全然!」
「息子も、娘二人も?」
「全然...2年前から一度も!」

ヤツは、子供を大事にしていた...少なくとも俺よりずっと。
大恋愛で結婚し、長身でハンサムなヤツと小柄でかわいらしい奥さんは、当時人気があった「チッチとサリー」の漫画みたいだと奥さんが自慢していた。
子供をほしがり、「男の子を9人揃えて野球のチームを作る」とか、生まれた長女を見て「こんなかわいい子はいないから芸能界に入れる」とか鼻の下を伸ばしていた。
色々とあの時代に聞いた話では、うちの子供達への小遣いの十倍は子供達にあげていたようだし、よく子供達にお金を使っていた。

正直言ってヤツとは、2年弱酒を飲んだりした後大阪のデザイン学校の先生になったので、その後は年に1〜2回ヤツが東京に来た時に酒を飲むくらいの付き合いだった。
ヤツの結婚生活、夫婦生活がどうなっているか、家庭がどんな風かは全く知らない。
ただ子供達に車を買ってあげたとか、長女がCMに出ているとかは、ヤツ自身の口から聞いていた。
そして先生を辞めた後、写植の会社を興し、一時はダイエーの仕事を受けていて羽振りが良いとかも、噂で聞いた。
そして従業員が20人を超え、新しい数千万とかの写植機を入れた後、時代がパソコンの時代に変わった事。
やがて、会社が傾き、会社を追われ、離婚し、子供は奥さん側に付き、ヤツ自身は母親の面倒を見るためもあって鹿児島に帰ったと...

そして、病に倒れ、ずっと入院しているのに、子供が誰も面会に来ない。
ヤツのお姉さんが子供達に連絡をしても、反応が無い...。

ヤツはそんなに酷い父親だったんだろうか。
そんなに面会にも行きたくないような、父親だったんだろうか?
子供達はそれぞれ結婚し、その結婚式にはヤツも参加したと聞いている。
その子供達は、裕福な家であったり、普通の家であったり、それぞれ生活をしているが、病院の様々な経費他はヤツの姉さんが年金から払っている。

...行きたい所は、ヤツが倒れる直前までバイトしていた宅配便の仕事で、いろいろと世話になったという山奥のお店のオバさんの所だった。
そこに連れて行き、「次ぎに行きたい所は?」と聞くと「トンカツが食べたい」と。
病院食ばかりで、味のはっきりしたものが食べたいのだと。
そこで、以前ヤツが気に入っていたという店に行き、そこでトンカツ定食を食べる。
スマートで格好良かった男が、不自由な手で食べるのに苦労しているのは見ているとつらいが、時間をかけて美味そうに完食してくれた...

しかし、まだ2時前だというのに「もう、病院に帰りたい」
「疲れた...」
他に行きたい所は?
「病院でいい」
まだまだ行きたい所があれば、と思っていたんだけれど...身体に無理をさせる事は出来ないので、病院に送る。

車椅子に乗せて病室に送る時、こちらの顔を見ないヤツに「また来るからな、もう少しあちこち行けるように身体を鍛えとけよ」と言って、握手をした。

ドアを出る前に振り向くと、ヤツは一言も声をあげずに泣いていた。


「なんで誰も来ないのに、あなた達は来るの?」
ヤツの姉さんに訊かれた。
「ヤツと俺が逆の立場だったら、ヤツはそうすると信じているから」。
多分、ヤツは俺がもっと若くして死ぬような事になった時、「残される奥さんと娘達を頼む」と頼めば、ヤツはきっと誇りをかけて気にかけていてくれるだろうと信じているのだ...そういう男気があるヤツだと思っている。
...若い頃、軟式野球だったけどチームを作り、当時東京でかなり強豪というチームと試合をした。
3点負けていた最終回、4番のヤツはデッドボールをよけずに身体で受けて満塁にした。
その時俺の顔を見て「あとは任せた」と真剣な顔で言いおいて一塁に向かった。
高校野球で名を馳せプロからスカウトされたヤツが、野球は本業ではない俺を信じてボールを身体で受けた...「まかせろ」。
満塁ホームランでその強豪チームに逆転勝ちした、漫画のようなエピソードが記憶に残る。
あれ以来、ヤツは俺を「一番のツレ」と知り合いに紹介して来た。

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