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2013年6月12日 (水)

こういう事も有るワケで

Bu130612二・二六事件の後、蜂起組に若き日の柳家小さんが引っ張り出されてしまった話は、落語ファンなら詳しくご存知の事だろう。
この事件について書くのは、私の本分であるゴルフ史の関係からだ。
なんと驚くなかれ一人のプロゴルファーも蜂起組に引っ張りだされていたのだ。
彼の名は寺島繁蔵(1915・9・5〜?)。
顛末についてはGolf Dom1936年6月号に書かれているのだが、小さな囲み記事の為、長文に出来るような資料ではないし、ノンフィクションにありがちなふくらましの為の想像のやり取りを書くつもりもないのでツマラナイやも知れないが、彼の経歴を追いながら書いて行こう。

寺島繁蔵は少年期から地元駒沢に在った東京GCでキャディをしながらゴルフを学んで行った。
駒沢は安田幸吉を皮切りに、戦争による閉鎖までに数多く(二十数名)を排出し留学生も多く送り込まれた関東プロゴルフ発祥、発展の地であり、彼の先輩には安田や浅見禄蔵の他に中村兼吉、小池国喜代、三田鶴三といったトッププレーヤー達が居り、後輩には国末繁や戦後レッスン界で活躍する小松原三夫などがいた。

1932年に東京GCは埼玉の朝霞に移転して、駒沢はパブリックコースと成るのだが、彼は同地に残り新たにヘッドプロと成った小杉広蔵と先輩大塚松太郎の下でプロと成る修行を積んだ。
そして翌33年6月、関東一円の若手プロを集めて行われた相模CC新進プロトーナメントで(確認した限りでは)プロとして初土俵を踏み、後に九州で活躍する島村祐正とともに11位タイに入っている。(22名出場)

それから一年おいた1935年の関東プロ、この大会からパブリックコースのプロの出場が許され(彼のボスの小杉や川奈のプロ達はそれ以前に(から)出場しているのは特別ワクか?)、寺島も同輩の伊藤俊夫とともに出場、36Hの予選では惜しくも一打差で本戦マッチプレーの八名には残れなかったが、予選落ち上位陣による2ndフライトに進み、一回戦で駒沢の先輩瀬戸島達夫二4&3で破れてしまうも、その大柄な体格から繰り出される長打は注目を浴び、戦後も『海外のプロの様に長いクラブで停まる球が打てる』と中村寅吉や林由郎、島村祐正に石井迪夫等アメリカ遠征組がうらやんでいた。
(もっとも彼のスイングは古典的なタイプで、レッスンでは打つのではなくヘッドを通す事を強調していたという)

注目される様に成る中、彼に見事なショットをもたらす自身の恵まれた体格、そして年齢があの事件の序章へと彼を引っ張って行くのだ。

戦前の日本には兵役法が在り、満二十歳の男子は徴兵検査を必ず受けねばならなかった。
プロゴルファーの兵役(日中〜太平洋戦争は除く)と言うと、安田幸吉がどのような職かと説明した所、それでは会員で在る皇族やハイソサエティの面々が困るという事で、廃疾者扱いの第二丙種として免除された話や、浅見禄蔵が1928年に日本OP・プロ選手権を獲り『さあ、これからだ』という時に二年間ゴルフから遠ざかった不運は有名だが、別に浅見だけでなく他にも有望とされた矢先に兵役に取られたものは何人も居り、大抵は再び活躍したが、中にはトーナメントどころかゴルフ界から遠ざかってしまったものもいるようだ。

話が少しズレてしまったが、この話の主人公寺島繁蔵もご多分に漏れず徴兵検査を受け合格と成り、翌36年正月に麻布第三歩兵連隊へ入営する事が決まった。
そしてまだ右も左も解らない2月26日未明、彼らは蜂起将校達によってクーデターに駆り出されてしまったのである。
事件の際彼がどのような行動をとっていたのかは、事件の本で隊の動きを見るしかないだろう...彼の書き取りや聞き書きが存在していれば良いのだが...
ともかくとして、クーデターは29日に鎮圧、投降した寺島達は原隊において監視付軟禁という処置が取られた。

二・二六事件は当時の国内を揺るがした出来事で在った為、ゴルフ界でも当然、いや当時のゴルフ界要人には近代日本史に係る者達が多かったため必然と言うべきか、話題に成っていたが事件の内容が判るに連れてプロ達は『アレ? 麻布第三連隊と言ったら寺島のシゲが入っているトコだよな...』と彼の安否を心配し始め、平定してから大先輩の安田や瀬戸島等駒沢出身プロ達が何度も面会に赴くが、会う事が許されず(彼等には何も教えられなかったようだ)ようやく面会が叶ったのは連隊の任務であった満州警備の出発前であった。

この面会で皆は寺島が事件で蜂起組に居た事を知るのだが、その際どうであったかのかを訪ねた所、彼は『アノ時は面白かったよ』と面会者達が『どういう意味で言ったのか..』と真意を計りかねる発言を残している。

そして彼は満州へと派遣されたのだが、ここで判らない内に事件に駆り出された兵達を待ち受けていたのは『逆賊なのだから死んで帰ってこい』という扱いの中、匪族討伐が楽と感じる程の過酷な演習の日々であり、更に除隊後も彼等だけ何度も再招集がかけられていた事は、この事件について書かれた本を読まれた方ならご存知だろう。

そんな運命の中、寺島はどうなったかというと、競技記録から見ると1938年末〜39年4月間に無事除隊帰国し(陸軍は期間が二年というので三年近く掛かったのは事件か日中戦争の影響か)、39年4月24日の関東PGA第二回月例会でプロ復帰をしている。
その後も再招集に引っ張られる事無く1943年10月19日、
戦前最後の関東PGA競技会、藤沢CCお別れ競技(プレー後の総会で活動中止が決まる)までトーナメントに出場しており、この年の関東プロでランナーUPに成っている。

彼が戦時中ぎりぎりまでプロ生活が出来たのは、政界に係っているゴルファー達の見えない取りなしが有ったのだろうか...
(浅見の時には期間の短い陸軍に成るよう取りなしがあったというが)

ともあれ、寺島は戦争を乗り切り、1960年頃まで関東を代表するプロとして、そしてシニアトーナメントでも活躍したが、惜しむらくは全盛期がゴルフもままならない戦中の暗黒期から関東PGAは復活したものの大トーナメント開催には至らなかった時期と重なってしまい、上位に行く事は有れどもメジャータイトルを獲る事は叶わなかった。
(シニアでもあと一歩の所であった)

小さな囲み記事からムリに引っ張った感のあるこの文だが、『掘っくり返し屋』としては歴史に埋もれた出来事をもう一度陽の目に当て皆さんにご覧頂けたのは幸いである。


主な参考資料
*Golf Dom  1933ー43年合本
*Gof Dom  1933ー38・40年合本
*日本プロゴルフ協会30年史、50年史   日本プロゴルフ協会
1945−85激動のスポーツ40年史・14ゴルフ ベースボールマガジン
*JGA70年史  日本ゴルフ協会 1994

*はJGA資料室にて閲覧


(この文の著作権は松村信吾氏に所属します)

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