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2014年3月 1日 (土)

戦前関西OP最年少優勝者について(掘っくり返し屋のノート−6

Bu140220ゴルフ史の調査をすると、従来の定説を覆す様な記録を当時の文献から見つける事が出来る。
先達の方々が見つけきれず、不明とされるなどした”それ”を掘り返す事が半ば趣味と化している私は、JGA資料室に通うようになった八年間(今までの書き物で参考資料として紹介した書籍の大半は同協会の蔵書である)の間にいくつかの新事実や、もしかしたら...という事柄に出会っているが、今回は日本のプロトーナメント史にまつわる話を上げてみよう。


戦前のプロトーナメントにおける最年少優勝記録は、これまで1933年度関西OP(5/21茨木C
C)における戸田藤一郎とされている。
彼は1914年1月22日生まれのため、優勝時は18歳181日で、1928年度日本OP(5/26〜27,東京GC)に19歳280日で優勝した浅見緑蔵(1908.8/20〜1984.6/19)の記録を抜いた、と最近のゴルフ雑誌にも書かれている。
(戸田は関西OPに二回目の挑戦で優勝しており、初参加の1932年大会は13位であった。
これまで32年大会は詳細不明とされていたので(「Golf Dom」1932年7月号に全選手のスコアが有るのだが)、初参加で優勝と書かれる事があった)

しかし、戸田の記録よりも若いチャンピオンが生まれていた様なのだ。
その人物の名は森岡二郎、この件に疑問を持ったのは別件で彼に興味を持った為であった。

戦前の国内プロゴルファーと言うと、今では1935年度渡米選手団の六名を除くとプロの祖.福井覚治や、戦後に活躍した者を含めごく少数しか語られなくなってしまったが、この森岡は鳴尾GCのプロとして、1928年にトーナメントデビューした。
それから大戦による関西PGA解散までの15年の間に、関西OP四勝,同プロ一勝、日本プロランナーUP二回,東西プロ対抗戦代表十回(第一回〜戦前最後まで連続)、1935年渡米選手団予備選手という記録を残し、戸田藤一郎・宮本留吉・村木章とともに関西を代表し、かつ大戦で戦死した事が惜しまれたプロの一人であった。

私が彼に興味を持ったのは、彼が最初に関西OPに優勝した1929年の記事と、関西プロ優勝時の記事に載っていたスウィングの見事さからであった。
これは当時の競技記録を集めていた中で見つけたのだが、当時のプロ達のフォームがボビー・ジョーンズで知られるカーヌスティ型の様な、フラットでフック打ちのスコットランド式スウィングが一般的な中、「鉄男」と呼ばれた森岡の上背のあるアップライトなスウィングは、宮本留吉によると全米OP・マスターズ勝者のクレイグ・ウッドによく似ていたといい、ロングヒッターかつアプローチとパッティングの名手であった。
彼のスウィングは教え上手のセオリストとして知られた、アマチュア出身の先輩(ボス)村上伝二・石角武夫たちから新技術を教わっていたのだろうか。
それはさておき、彼のインパクトやフォロースルーの写真を見て”良いフォームだな”と感じながら1929年度関西OPの記事を読んでいた時、「彼は確かこの大会に18歳そこそこで優勝していたのでは?」と、以前読んだ本の内容から思うに至った。

その本は、1938年に当時最大のゴルフ雑誌社「Golf Dom」が発行した「ゴルフ叢書6 ゴルフ問答読本」という当時のトップ〜教え上手のプロ達が銘々、技術論から練習・用具等プレーに関する様々な問いに対して回答する様式のレッスン書で、森岡もこの回答に参加している。
この本には色々と興味深い事が書かれているが、当時の私は巻末に記された参加プロの生年月日と戦績を重宝していた。
と言うのも、戦前のプロ達のプロフィールは中々残っておらず、生没年すら判らない人たちがかなり居る為、こう言った所から収集するしかないのである。

そこに、件の森岡の生年月日が明治44年と書かれていた事を思い出し、再度書架から取り出して開くと「森岡二郎、明治44年(1911)4月28日生」とある。
そしてここから彼が最初に関西OPに優勝した日時1929年5月17日までを計算すると、記載の年月が間違っていなければこの時森岡は18歳19日で、あの戸田の記録よりも160日以上若い。
(因に本大会は5月16日に36Hのメダルプレーで行われ、78・78=156で廻った森岡に宮本留吉が追いつき、翌17日にプレーオフ(18H)となった。
プレーオフは、双方大ミスとその挽回で取ったり取られたりをしながら前半は38でハーヴ、インの12〜14番で宮本の崩れに乗じて四打のリードを取り、更に最終ホールで一打を加え、77対82と五打差で勝利を収めた。)

ただ、この記述が本当に正しいかどうか、私にもこの件をお伺いした大会を管轄されている関西ゴルフ連盟にも判らないのだ。
私は先のレッスン書しかハッキリした物を見ていないし、連盟側も生年月日を確認出来る資料が無いと言う(返信後プロフィールのコピーを送らせて頂いたが)

更に別の方から、昔はよくあったと言う、生まれて暫くしてから出生届を出すという例を指摘され、何か見落としをしているのでは、と不安を呼び起こしてしまう中、1929年の記事には「森岡はまだ19歳」と有り、その前年二位になった茨木CC招待(1928・12/1〜2)の記事でも18歳と書かれているではないか...

嗚呼、私の考え違いなのか...と思いもしたが、当時は数え年が一般的であり、「Gof Dom」1934年1月号で浅見緑蔵が東西のプロについて語った記事で、彼は年齢を数えで語っているし、他の"歳の判っている”ゴルファー達の年齢が書かれた記事もやはり”それ”で表記されている。

更にこれは戦後の話だが、1956年に鳴尾で行われた関西プロで森岡の長男、比佐志氏が18歳8ヶ月の若年で決勝まで進んだ際、ギャラリー達が彼の亡父二郎が18歳で関西OPを獲った事を引き合いに「彼も父親と同じ喜びを得る事が出来るのか」と言葉を交わしていた事が、雑誌「Golf(報知新聞)」1956年10月号に書かれているので、1929年の記事に書かれた19歳は、やはり数え年での表記と見ても良いと思う。

そして先述の「ゴルフ叢書6」にある森岡の生年月日が正しいと仮定して(日時にずれがあっても1911年生まれなら戸田の記録より速いママ)、なぜ戸田の記録が通説と成ってしまったのか?
考えられるのは、日数を数えずにただ18歳で優勝と書いた為、記録がゴッチャとなり、その後ライター達によって戸田の記録(生年月日もはっきり伝わっているので)のみが拾い上げられた為ではないだろうか。

戸田は渡米選手の一人であり、戦前のゴルフ界を代表するプロで、ランク付けをすれば間違いなく特急に当たるだろう。
森岡も一級に挙げられるが、戦没した事から目立たず(プロゴルフ協会の年史以外で彼の戦死について触れた本”雑誌では有るが”を見た事が無い!!!!)、更に過去のプレーヤーやゴルフ界に対して国内のゴルフジャーナリズムが触れる事が少なく、(特に近年)正当に評価されていない。
その為、戸田の記録ばかり取り上げられ広まっていったのだろう。

石川遼が国内プロトーナメント最年少優勝記録を造った今日、私が感じた疑問は答えが解ったとしても、もはや一般的には用を成さないかも知れない。
しかし、ゴルフ史編纂において彼の記録を明確にするのは重要であると私は信じている。

        〜了〜

2013・4月記  同年10月13日改訂

参考資料
ゴルフドム1928年〜1943年合本       (月刊誌 編集長 伊藤長蔵)
Golf 1931〜1938,40年分        (月刊誌 目黒書店発行)
Golf 1956年10月号             (月刊誌 報知新聞発行)
日本ゴルフ協会七十年史 1994         日本ゴルフ協会
ゴルフ叢書6 ゴルフ問答読本           草葉丘人(伊藤長蔵)日本ゴルフドム1938
日本プロゴルフ協会30年史  1987  日本プロゴルフ協会
日本プロゴルフ協会50年史  2007  日本プロゴルフ協会
関西ゴルフ連盟40年史(競技記録)
  以上JGA資料室にて閲覧
右手 鬼才戸田藤一郎の生涯    早瀬利之
 

(この記事の著作権は全て松村信吾氏に所属します)

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