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2014年5月 5日 (月)

知られざる来日プロ〜1 (掘っくり返し屋のノート〜8)

Bu140423戦前日本を訪れたプロゴルファーで、当時のゴルフ界に影響を与えた人物というと、ウォルター・ヘーゲン(1930、38)やジーン・サラゼン(1937)が取り沙汰され易い、他には1930年に訪れた”ワイルド”ビル・メルホーンとボビー・クルックシャンクも挙げられるだろう。

1930年以前に日本を訪問した面々では、上海のグリーン某(1889〜1919)とジョージ・ノリス。東京GCが雇ったスミス某(?〜1919?)や後任のトム・ニコル(1879〜?)。(当時アマチュア復帰していたが程ヶ谷CC旧コースを設計したウォルター・フォーバーグ。長期滞在したダヴィッド・フードがい居る。彼等もなかなか興味深い話があり、日本のゴルフに影響を与えているのだが、今回はトム・ニコルについて書かせて頂いた。

彼は1878年にスコットランド、St,アンドルーズに生まれた本場育ちのプロであり、JGMミュージアムの説明書きには、有名なクリークメーカー、ジョージ・ニコル家の者か、と推測しているが詳細は不明。確認が取れる事は二十代の頃、少なくとも1900年代初頭にはアメリカに渡り、西海岸でプロ兼コース設計家として活動をしていた。
[The Architects of Golf]には1905年にバーリンガムCC、サンホセCC(1915)、メンロウCC(1916)、ロスアルトスCC(1923)等を設計している事が書かれている(後ろ二つの年次は別の書籍から、この箇所は「佐藤昌が見た世界のゴルフコース発展史」にも引用されている)。
私が確認出来た最古の記録は1916年版「American Annual Golf Guide(以下AAGG)」にサンホセCCのプロとして記載されているもので、この事からコースを設計すると共に契約していたようだ。次は1917年版「Spalding Golf Guide」に小さいが写真も載って紹介されている。
同年の「American Golfer」10月号で、有名なマクドナルド・スミスと入れ替わりでクラブを離れた記事が載っており、「The Architects of Golf」ではこの年にフィリピンのマニラに渡りコースを造ったと在る事から、それは所属地となったマニラGCのことであろうか?
叉、英国のゴルフ年鑑「Golfer's Hand Book」の人名録に、長年「アメリカ・中国・日本・マレーにコースを造った人」と書かれているが、中国、マレーシアには来日までの間に行ったのだろう。

ニコルと日本の最初のコンタクトは「新版日本ゴルフ60年史」によると1918年に神戸GCが求人を出した際に取っており、マニラが雨期の期間の契約の契約を持ちかけており、1920年5月1日の手紙ではレッスン料1時間四円で交渉していると有るが、契約は成立しなかったようだ。
日本にやって来たのは1920年8月で、これは東京GCの要請によるものであった。
東京GCにはその前年にスミス某という若い英国人プロを雇っていたのだが、彼はホームシックからアルコール依存症となり、業務に支障をきたした為、本国に送還されてしまっており(航海中、壇ノ浦で投身自殺をしたという)、クラブとしては会員のコーチやクラブ修理をしてくれるプロを渇望していたのである。

東京GCに置けるニコルはプレーヤーとしてスミスには及ばなかったが、素杯な好人物という人柄は会員達に愛され、後々まで「ニコルは良い奴だった」と評されるに至った。
彼は日本に来る際にクラブの修理製作用工具と素材を持ち込んでおり、時間があれば会員達のクラブの修理調整や、クラブ製作を良く行っていた。
その腕前はかなりの物だったというが、故郷のSt,アンドルーズには有名なロバート・フォーガン(新世界にプロを斡旋していた)を始めとするクラブメーカー・クリークメーカーが多数在ったので、おそらくそこで働いていたのだろう。

そんなニコルの作業を興味深く眺めていたのが、当時十五歳のキャディーマスター、安田幸吉であった。ニコルも安田少年が興味を持っているのに気付き、言葉は通じないがやってみるかと誘った。そこから安田に身振り手振りの付ききりでクラブ修理製造のノウハウを教え、日本を離れる時には工具の全てを彼に贈っている。
彼が安田にクラブ作りを教えた所から関東のクラブ製造の源流が始まったと言って良いだろう。事実、安田の下でアシスタント達や、研修に訪れたスポーツショップの店員が技術を学んでおり、また彼等の下からクラブメーカー達が育っているのだ。

ニコルの日本におけるもう一つの功績は軽井沢GC(現旧軽井沢GC)を設計した事だ。
クラブ発起人の一人田中実が日本のゴルフ界のパイオニア達による座談会で語っている所によると(「Golf Dom」1931年1月号「ゴルフ座談会の記(6)」)、彼を出張費時給5円・一日5〜6時間の計算で日給30円程として軽井沢まで連れて行くと、ニコルは1日半でレイアウトを済ましたという。
内訳は、半日土地の見回り(薮が酷かった)をした後、9本ずつの赤白の棹を刺してティとグリーンの位置を決め、後は発起人達で増設するというもので、一日半の働きに対し費用は百数十円で(内30円は藪漕ぎでボロボロになってしまった彼の洋服代)、田中曰く「これより安いレコードは恐らく無いでしょう」との事。
コースは翌年4月6H、23年9Hに拡張、七番パー5は674ydという特筆すべき長さから東洋一のパー5と謳われ、1928年8月に浅見緑蔵が3オン1パットのバーディーを出した時にギャラリー達が感嘆した程の難ホールであった。

数ヶ月の日本滞在の後、ニコルはフィリピンに戻ったのだが、1921年にはアメリカに帰国して居たようで、1922年版「AAGG]に再びサンホセCCの欄にプロとして名前が載っている。(書き写しノートより)

その後の記録としては1930年版「Golfer's Hand Book」の人名録で所属地(宛先)が同じカリフォルニアのロスアルトスccとなっている。
コースを設計したのは彼であり、1928年版「AAGG」(プロの名の綴りがThomas Nichollsに成っているが...30〜31年版ではTom Nicoll)には1923年開場で在る事を考えると開場前後から所属していたと見てよいだろう。
サンホセに戻った時だろうか、ロスアルトスに移った頃だろうか、ニコルは「Golf Dom」社長の伊藤長蔵にプロ・グリーンキーパー問わず、給料が不十分でも、コース脇でジャガイモでも育てて日本で暢気に暮らしたい...と再来日が可能か、仕事場を求める手紙を送っている。
これは叶わず、サンホセで長年働く事になるが、1931年末、クラブ作りを教えた安田幸吉が渡米選手団の一員として西海岸のトーナメントに参加した際、ニコルは彼に面会し旧交を温めた。

その後のニコルについては1946年にロスアルトスの改修を行った事と、毎年ゴルフ年鑑に名が載るくらいしか記録が無いが、高齢になっても倶楽部プロの仕事をしている事から慕われていたのだろう。
1956年版まで宛先に同倶楽部が使われているが、57年版から同じ市内の自宅と思われる住所に変わっており、1960年版で名前が消え、JGA、ミュージアムの説明書きの生没年には1959年に81歳に亡くなっている事が書かれている。




2014年4月3日


Golf Dom 1931年合本  
ゴルフに生きる(平成3年版)  安田幸吉 1991  ヤスダゴルフ
新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 1977 ベースボールマガジン
American Annual Golf Guid 1916、23、28、30ー31年版
Golfer's Hand Book 1936〜37、40、50、55〜60年版
Spalding Golf Guid    1917年版
The Architects of Golf Geoffry S. Cornish Ronald E. Whitten 1993(第二版)

JGA資料室、USGA museum HP デジタルライブラリーにて閲覧


この記事の著作権は全て松村信吾氏に所属します。

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