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2014年8月 7日 (木)

掘っくり返し屋のノート(10)「彼等はどうなったのか、第一回日本プロ出場の三人のその後」

Bu140728「彼等はどうなったのか、第一回日本プロ出場の三人のその後」

先年から第一回日本・東西三プロ選手の顛末やプレーヤー達のその後を書く為、調査と文の手直しを繰り返していたが、その途中雑誌「Golf Style」で第一回日本プロに関する事柄が発表され、更に日本プロゴルフ協会殿堂のHPコラムに大会の新聞記事がアップされるようになった。
後出しに関するご批判は承知しているが、このまま死蔵させるのもイヤなので、プレーオフの福井・宮本の各ホールのスコアと、余り知られていない越道・村上・関の三名の評伝と戦績を発表させて頂いた。補足として皆さんの参考になれば幸いである。

*プレーオフ各ホールのスコア(大阪毎日新聞1926年7月11日朝刊より)
宮本留吉
1st 434.444.434=34 454.464.335=38 Total 72
2nd 445.334.437=37 244.684.466=44 Total 81 153

福井覚治
1st 355.435.634=38 355.643.446=41 Total 79
2nd 454.343.544=37 444.763.545=44 Total 81 160


〜三人の評伝〜

越道政吉 1894頃〜没年不明
〜日本プロ以前〜
神戸GC キャディ出身、同クラブのキャディトーナメントに中上数一と共に名があり、青年期はハウスキャディをしていたようだが詳細不明。1920年に福井覚治がプロになったのを聞き、彼のアシスタントに。1922年に横屋GA跡地が甲南GCとして復活した際にヘッドプロとなる。
〜日本プロ以後〜
彼はこの後、1930年代前半まで国内〜関西のトッププロとして活躍しており、1930年には日本プロ選手権で二位Tに入っている。
プレーについては、スコットランド式のフックを打つ纏まったスタイルの持ち主で、図太いナーヴを持っていたという。
筆者は1937年11月15日の関西PGA月例会(アンダーハンディ)で優勝した記録までを確認している。この時の所属地も甲南GCである事から、翌38年の表六甲連山の山津波による壊滅からの移転及至戦争による閉鎖まの間まで在籍していたと見られる。
この以降については不明で、筆者が確認出来たのはJPGA30年史の安田幸吉・山本増二郎の座談会で、1946年の関東PGA再発足の際に集まったものの一人として名が挙がっている事、同士の物故会員の欄に名がある事の他、1954年に宮本・安田が南郷三郎を囲んだ座談会で(「Golf(報知新聞)」同年4月号)彼について、この時にはもう活動していないか、亡くなっている様な記述をしている程度であった。
所属 舞子CC(アシ)1920〜1922、甲南GC1922〜1937以降(1931年時無所属?)
戦績 日本OP4位-1920・30、日本プロ2位T-1930、 関西OP3位ー1926、 関西プロQuf1931〜32、 茨木招待4位−1928、 東西対抗戦西軍 1930〜33

村上伝二 1885〜没年不明
〜日本プロ以前〜
広島の銀行家の五男として生まれる。慶応大学〜社会人野球で活躍した後、大正初期にゴルフを始め、鳴尾GA第三期メンバーとして入会。海外のレッスン書の熟読、フォーム作りの為の3ヶ月の打ち込みによりクラブでもトップの腕前となり、1923年プロ転向(西村貫一の「日本のゴルフ史」より、しかし同年5月に行われた鳴尾GCのクラブ対抗戦の雑誌記事に、「村上なき後」と書かれている)、国内初のアマチュア出身・大卒プロとなる。
〜日本プロ以降〜
この大会後もトーナメントでプレーし続けるが、余り活躍出来なかった。
27年大会は優勝を意気込んでいたが、持病の痔疾で力が入れられず病欠。リベンジとなる28年度日本プロでは残り9Hで二位に立つが、11番でショットを松の木の傍に打ち込み、狙いに行った2打目を木に当てた所から大崩れをし、六位に終わったのが彼のキャリア最大のチャンスであった。
プレーの内容は確認出来た限り、一貫して82前後で廻る腕前で(30年代半ば頃で中の中位のレベル)、ナーヴが弱いとされたが理詰めの策士として知られ、東西対抗の代表や補欠にも選ばれている。
出場していた関西OP・プロの記録は史料不足(上位以外省略になっている史料多し)で、1930年代半ば以降のものを確認出来なかったが、月例会には1930年代後半も出場しており、戦前最後の記録は1942年古巣鳴尾GCで行われた月例会で1ラウンドだけプレーしたのを確認。
プロ仲間への・からの干渉を好まなかった為(信条であった)、プロ間では一匹狼的存在であったというが、アマチュアの間では海外の技術論も原文で理解している理論家の教え上手として、クラブ後輩の石角武夫と並んで有名な存在であり、友人の息子である古賀春之輔をプロにしている。
戦後も活動を続け、82歳時に元気で働いている事が雑誌「Golf(報知新聞)」1968年4月号で取り上げられている。

関一男   生没年不明
〜日本プロ以前〜
根岸の日本レース倶楽部GAのキャディ出身。父親が倶楽部の日本人マネージャー(グリーンキーパー、バーテンダーとも)であり、彼はクラブハウスで生まれたというからコースの出来た906年以降の生まれか。青年期に関東学院に通いながらキャディをしてゴルフを覚えていったが、英語が出来る事からプロになった。
〜日本プロ以降〜
彼は他のプロに比べて史料(と言うより記録)があまりにも少ない。プレーヤーとしては日本OP最初の参加者の一人でもあり、1929・30年も出場しているのだが、同大会は1930年の9位以外は第一ラウンドで大叩きをして予選落ち、日本プロは1929年に再出場したのみで、しかも足を痛め第二ラウンドで棄権している。プレーの写真は三枚しか見た事が無いが、カーヌスティ型のスイングをしていたようだ。
根岸には1929年まで働いており、1930年版「Golfer`s Hand Book」のNRCGAの欄にH・Sekiの名が載っている。この年に(兵役?)退職をした瀬戸島達夫の後釜として千葉の武蔵野CC(六実)へ。この頃、曜日を決めて帝大OBの社交倶楽部、学士会の同会館でレッスンをしていたと、彼からレッスンを受けた事がある農学博士・佐藤昌が著書「世界ゴルフコース発展史」に記している。
1930年以降は武蔵野を退職したのかトーナメントにも出ておらず、動向も不明である。
摂津茂和は「(新旧)日本ゴルフ60年史」で「英語の出来るインテリプロとして、村上や石角と並んで優美なフォームと共に広く知られた」と書き残している事から、1930年代初頭の関東を代表するレッスンプロとしてインドアや野外練習場で働いていたと推測される。
戦後の動向について宮本・安田は、1954年の座談会で彼について「生きているんじゃないかな(安田)」「全然見んがね(宮本)」と語っている事から、廃業した可能性がある。
所属 NRCGA 1926・7月以前〜1929、 武蔵野GC 1939年頃、学士会館にて出張レッスン
戦績  日本プロ3位ー1926、日本OP9位ー1930、茨木招待9位−1929

文中未記載の参考史料 
大阪毎日新聞1928年12月1日昼・夕刊
Golf Dom 1922〜1943年分
Golf(目黒書店)1931〜37、39〜40年分
Golfing(関西GU)1938年10月号(大阪GC50年史付録)
Golf(報知新聞)1954年4月号「ゴルフ鼎談 日本ゴルフの創生期」
Golf(報知新聞)1968年4月号「レッスン一筋に44年 82歳のプロ・村上伝二さん」
日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン 1977
ゴルフに生きる 安田幸吉 ヤスダゴルフ製作所 1991
ゴル不一筋 宮本留吉回顧録(新装版) ベースボールマガジン 1986 
佐藤昌が見た世界ゴルフコース発展史 佐藤昌 2001
ゴルフ日本のテクニック 浜伸吾編集 ベースボールマガジン 1986 
ゴルフその神秘な期限 井上純勝 三集出版 1992
日本プロゴルフ協会30年史 日本プロゴルフ協会 1987
シリュはJGA資料室、国立国会図書館、自宅蔵書より調査・閲覧



この記事の著作権は松村伸吾氏に所属します。

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