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2016年10月 5日 (水)

ダヴィッド・フードの補足(掘っくり返し屋のノート〜11)  (2015年6月7日)

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以前、戦前の来日プロ、ダヴィッド・フードについて書いたが、その後も史料を探していた所、彼は単なる来日プロでは納まらない人物のように感じた為、今回はその事の紹介をし、以前書いた評伝の補足としたい。

・フードの経歴と活動範囲
先年の初秋であったか、『Golf Dom』1926年の合本を読んでいたところ、幾つかのフードの活動に関する紹介と、8月号にフード本人の寄稿文『Some Remarks on Japanese Golf(英文、元の掲載紙不明)』を発見した。
これは日本からカナダへ渡ったフードが、(海外の雑誌に?)寄稿した日本のゴルフ界についてのレポートだが、これらや後年の記述をベースに彼の活動を書いて見る。

『Some Remarks on Japanese Golf』によると、彼は、1902年からの24年のプロ生活の間、故郷スコットランドを始め、イングランド・アイルランド・ウェールズ・フランス・南ア・タスマニア・ニュージーランド・オーストラリア・フィリピン島(当時米領)・中国。そして忘れじの日本(更に向かっているカナダ)を渡り歩いたという。
これは廻った順番かどうかはわからないが14の国と地域を廻っている事を鑑みると、『単なるスコットランド人プロ』というより『新旧両世界を股に掛けたゴルフ伝道師』という見方が出来るだろうか。

 私は前回の書き物でニュージーランドとオーストラリアに在籍していたのでは?と記したが、これはその裏付けになってくれるだろうし、宮本留吉がフードを『カナダのプロ』と書いたのも、日本を離れそちらへ向かった為だろう。

先に、彼と関係ありか?と挙げたフレッド“F.G”・フードは、ニュージーランドPGAのHPによると。St.アンドルーズ生まれで、1902年にニュージーランド北島(ロイヤル)AuckLandGCの初代プロと成って以降、悪天候下におけるプレーによる肺炎で亡くなるまで(1926年以降、享年46歳)の24年以上の間に、非公式ニュージーランドプロ二勝(1903,06公式は1920から)コース設計、レッスン、クラブ製造と精力的に活動し、1913年発足のニュージーランドPGAでは初代会長を勤めている。とある。

“F.G”はダヴィッドの兄弟でないのか?と考えているのだが。(移民プロ達が兄弟して新世界に続々乗り込んでいくのは珍しい事ではなかった)今のところ情報は得られてない。
又、PGA発足時の集合写真がHP上に有るのだが、キャプション(記事)が無いので誰が“F.G”なのか、又ダヴィット・フードもその中にいるのかも不明なのが残念である。
日本に来日した事については、『Golf Dom』1940年4月号『宮本の修業時代 丘人(伊藤長蔵?)』に1921年に東京GCがオーストラリアから招聘し、前後二回渡来した事が記載されている。ただ、東京GC年史に書かれていないのが気になるが。

フード本人によると、日本には4年以上居り、東京〜長崎間の各倶楽部でレッスンを行う。と記しているが、一時的な離日については書いていない。しかしフィリピンでのプレーの他、先の丘人の記述や『Golf Dom』1927年1月号P17 『Beginnerとしての二年有半(YS生)』に書かれているので、確かな事だろう。

・フードの国内での活動の補足
フード本人よると、日本滞在の4年間、東京〜長崎間で仕事をし、沢山のゴルファーを教えており。この年月(5年程とも)で日本においてゴルファーとコースが増えたことは驚くべきだ、と語り。赤星六郎と川崎肇を日本を代表するゴルファーとして紹介している。
この他、日本を離れる前から、日本人は自分が見てきたどの国のゴルファー達よりも(熱心ゆえの)クレイジーとも言っている。
主な仕事は先の評伝で書いたレッスンと同伴プレーであったが、これらの仕事は新しい話も有る。

フードは、宮内省の職員達に新宿御苑でレッスンを数度に渡って行ったが、侍従武官長・奈良武次の日記によると1922年10月12日に新宿御苑で模範プレーをした際に、摂政宮(昭和天皇)が彼のプレーを観覧されたという。(田代靖尚著『昭和天皇のゴルフ』内で紹介)
私が目にしたのは上の通り孫引きなので、最終的な確認が必要では有るが。昭和天皇がプロのプレーを見たのが、記録に残っている物では英国訪問時だけで有る事を考えると、これは国内プロゴルフ史上注目に値すべき事ではなかろうか。

宮本留吉は、『ゴルフマガジン』1975年3月号『日本プロ・ゴルファー人脈探訪3(柴田敏郎)』で茨木CC一門について語った際、フードのレッスンについて触れており、それによると彼の教えはスローバック主体のもので、リズムを強調していたというが、余りにも強調しすぎて、?楽部発起人の広岡久右衛門がダウンスウィングに移れなくなる病気に罹ってしまい、宮本はその矯正に閉口したという。
しかし彼のスローバックのレッスンが宮本のスウィングのバックボーンになり、茨木一門のプロのバックスウィングのリズムのよさは、フードから宮本に受け継がれたのか。と考えるほどだ。と、この記事の著者は記している。

西村貫一は彼との付き合いから、フードが語った話を色々と書き留めて居た様で、後述するコース設計関連や、ドライバーが無くてもブラッシーをティショットで使う有効性、ダウンワードブローにアイアンショットを打つ方法についてのQ&A等、雑誌に幾つか記事を残している。

なお、1925年末に京都のゴルファーK.Y生が『憎まれ口—Pro.のLesson—(『Golf Dom 』12月号)で、フードによって起きた関西プロのレッスンフィ高騰を書いたが、翌年に茨木・舞子・鳴尾・甲南・京都関西の5?楽部が連合してプロのレッスンフィの改正をし、2月1日から実行された事により問題は解決した (『Golf Dom』1926年2月号P 13)

・フードのコース設計
彼は再来日時、正史に有るように茨木CCの設計を行ったが、途中で契約期限切れになって18Hの完成前に離れてしまっている。
しかし1925年4月初め、コース開きの準備としてローカルルール等を決める為の試打ちの際に同行している他、別の時であろうか、西村貫一に全ホールの攻略と、改造を有するホールについて語っており。これは西村が書きとめ、『Golf Dom』1926年5月号に『IBARAKI GOLF COURSE(英文)』として発表され、この中でフードは1・3・4番の延長と改造、12・18番の改造を挙げていた

更に彼は茨木CC以外にもコース設計(アドヴァイス)や改造を行っている。
1926年前後に長崎県諫早の長崎GCに関して、設計者(支配人)内田林市の相談相手となり。設計のアドヴァイスを行っている。
また、同コースを見に来るフードに、雲仙GLのゴルファー達がコース改造のアドヴァイスを求めようと、伊藤長蔵に頼み招聘をしている。

1926年5月21日、客船で長崎へ来たフードは来港と共に雲仙リンクスに直行。
プレー後、ホールに変化をつけるために3・5・9番ホールのグリーン新設と二番ホールの一新、旧グリーン及びティを使ったレイアウト変更を行い、これにより2778ydから3152ydへ、400yd近い延長となった。(Par36・Bogey38)
(『Golf Dom』1926年6月号P24-25『雲仙通信(1925年6月1日Y.H氏記)』より)
その後長崎GCへ行き、西村貫一は雑誌で『先日フードが行ってコースを設計したそうです。そうして大変に良いリンクスになるそうです』と記している。(『Golf Dom』1926年9月号P17『無題』より)
※長崎GCは元々雲仙GLをホームコースに発足した?楽部で、1933年時には諫早のコースと雲仙のコース二つを活動拠点にしていた(1933年版『Golf初心者の為に(原田立之助)』内、ゴルフ場案内より)

彼にとって雲仙は思い入れが強かったようで、日本のコース紹介でも『ゴルファーのパラダイス』で素晴らしいターフのコースと評し、一番多く文字を費やしている。また長崎GCはその土地について可能性を秘めたコースで、設計の内田氏がゴルファーのあらゆる望みを叶えてくれると確信している。と紹介している。
※ちなみに長崎GCは18Hの予定であったが、1928年4月3日に9Hで開場した。
ただ日時について当時の『Golf Dom』には9月1日にイン9H、3~5番が仮設ホールの2708yd、Par33・Bogey36で開場、今後3015ydの予定。とする記事が有る。
その後同コースは1930,33年に3103yd.Par36、1936年の上田治の改造後(3168yd Par37)、そして1943年の閉鎖まで9Hであった模様。

・フードの腕前・離日とその後
残された記事などを読むと、フードが日本を離れたのは、1926年6月中と見られる。もし、7月4日に行われた第一回日本プロ選手権に出場していたら、どうなっていたのだろうか?
プレーヤーとしては、前回書いたフィリピンでのコースレコードが二~三と、前回書いた程ヶ谷CCの(9H)開場競技の際に出した37・37=74や、アイヴォ・ウィットンとのマッチ(3&2でウィットン勝利)の他には、
ニュージーランド時代の1906年にオーストラリアOPで10位(初期の同大会は1位と二位以下のストローク差が激しかったが)。
駒澤(東京GC)で赤星鉄馬(赤星兄弟の長兄)が彼の真価を突き止める為、5ポイントのハンディを付け1ポイント十円(フードの負けならクラブ1本)のマッチを行った際に、赤星がアウト37で廻った上1ポイントを使い1UPしたが、インでフードに全てのポイントを使わされ、1Downであしらわれ、彼の余裕ぶりに感嘆した話(『Golf Dom,』1923年12月号『19Th Hole』)が有る位で、国内のプレーについて余り記録が無い。

ただ、伊藤長蔵が1925年の訪英の道中立ち寄ったコロンボのリッヂウェイ?楽部で、地元プロとプレーをした際、彼の腕前がどれ位なのか『よくてフード位に心得ておれば別に驚くことはあるまい』と心に決めた。というから、そこそこの腕前と見なしていたのであろうか。(『Golf Dom』1925年6月号『LinksからLinksへ第四信Spoonの古倫母より(C.I.生)』)
上記の事を鑑みるに、彼が日本プロに出場していたら、当時の国内プロのレベルを考えると、優勝とは行かなくても上位に入賞していたかも知れない。

彼が、日本を離れた時期について考えるには、この日本プロの日程が一つの目安に成っている。
というのも、当時の雑誌や新聞記事を読んでも、フードの不参加を残念がるような表現が無い事や、参加者は皆倶楽部所属のプロである事から、フリーの彼は参加できなかった。とするならば、その事に対する言及・批判記事は出ているはずなので、大会が行われるより大分前(7月2日の大阪毎日新聞に大会開催を報じる記事が掲載。又、参加者の安田幸吉は、6月半ば頃に所属?楽部役員から、大会が行われるから参加しなさい。と言われた事を回想記で振り返っている)に日本を離れた乃至離れる準備をしていた。と観るべきだろうか

フードは日本を離れた際、先の『Some Remarks on Japanese Golf』を書き、冒頭にカナダに渡ったことが紹介されている。
その為、カナダに渡ってからはどうなったのか。JGA資料室で蔵書の『American Golf Anuual 1930-31』内の『カナダの?楽部』の項目を読んで見たが、残念ながらフードの名は出てこなかった。(ただ、この手の年鑑の?楽部情報は、省かれている事もあるのが)
詳細な記録が有るかもしれないニュージーランド、オーストラリア及びカナダの三PGAに問い合わせる事ができればよいのだが…

フードは『Some Remarks〜』の最後に、ゴルフが裕福な者のゲームであると見做されるのは誤りであり、若者がゴルフに触れることが出来るようになる為の手伝いをしていく事は重要な事業であるとし。
日本はアウトドアスポーツに関して日が浅いが発展の下地を持っており、優れたプレーヤーを生み出す機会が有るであろう。と記している

以上が、現在私が補足分として紹介できる限界である。
彼の活動を考えると、摂津茂和氏が『日本ゴルフ60年史』に書いたように、来訪プロ中日本のゴルフ界に一番影響のあった人物であり、JPGA等でもっと顕彰をしてしかるべきではないか、と私は考えるのだが如何な物であろうか?

                 〜了〜
                      2015年2月21日記

※文中記載以外の参考資料
・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 1976 ベースボールマガジン
・我が旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純 1991 廣済堂出版
・The Champions and The Courses They Played(Terry Smith& オーストラリアゴルフユニオン) 2004


(この記事の著作権は全て松村信吾氏に所属します)

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