忘れられないプロゴルファー

2016年10月23日 (日)

ペイン・スチュアートの飛行機事故の真実?

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2009年1月に「忘れられないプロゴルファー」のカテゴリーの中で描いた記事、「星になった伊達男 ペイン・スチュアート」の飛行機事故。


謎や噂話が多く、事故原因も過程も結末もみなはっきりとした証拠のない噂話の域を出なかった。
私が集め調べた情報も、所詮噂話の集合に過ぎなかったのがずっと気にかかっていた。
その事故が、昨夜晩酌をやりながら見ていたケーブルテレビのナショナルジオグラフィックチャンネル「メーデー14」で放送された。
この「メーデー」と言う番組は、NTSB(アメリカ国家運輸安全委員会)がアメリカが関係する航空機事故について調査解明して行く「事実に基づいた」と言う番組だ。
実を言うと、この番組を見ると飛行機に乗るのが怖くなるので、あまり見ようとも思わないモノなんだけど...他に面白い番組が無い時に見るくらい。
その番組冒頭でいきなりペイン・スチュアートの映像…1999年の全米オープン優勝のシーンが流された!
おもわず「え!?」と姿勢を正す。
あの、噂話ばかりが大きくなったペイン・スチュアートの乗った飛行機の墜落事故の真相が分かるのか?
なにしろNTSBの調査報告書を元に作る番組と言うのだから、色々あった噂話の何が真実だったのか…あれからずっと気になっていた事の答えが判る!?
彼の乗ったプライベートジェット機は、離陸後僅か十数分で応答不能になったという。
ルート上左に曲らなくて行けない地点を真っすぐ直進し、30000フィート程度で水平飛行に入るはずが更に上昇を続け40000フィートを超えてしまう。
そこで、呼びかけに答えず直進する飛行機に、空軍がF16戦闘機を発進させて直接のコンタクトを試みる。
そして戦闘機のパイロットはそのプライベートジェット機のコックピットや客室の窓が霜で覆われて白くなっているのを発見し、報告する。
この辺は記事を書いた当時調べた事と一致する。
高度40000フィート以上と言う事は約12000メートル以上の高度...この高度では人間は酸素を得られずに意識を失い死亡する。
あの酸素ボンベが無いと無理と言われるエベレストが8000メートルと言う事を考えれば、この時には既に全員死亡していたと確信された。
この番組では、この事故は何らかの原因で与圧不良を起こした機体の状況に対して、パイロット達の酸素マスクの装着のタイミングが遅れて酸素不足になり、意識を失った為の事故と報告された。
その大元の原因は、危機対策のマニュアルの順番が不合理だった事だそうで、その後に全ての航空機のマニュアルが改正された、と。
う〜〜ん、ピンとこないなあ。
問題は「何故与圧不良が起こったか?」であり、この飛行機あるいは乗客に生き残る手だては無かったか?」だと思うんだが、その辺は一切判らない、と。
この与圧不良が起こった為に、意識を失い酸素不足と超低温の為に全員死亡したのは事実だろうが、その直接の事故原因の機体の問題やらは何も解明されなかった。
そしてもう一つ、当時大きな噂となっていたのが「コントロール不能のジェット機が大都市に落ちるのを防ぐ為に、戦闘機がミサイルで安全な田園地帯に落とした?」と言う話。
これは、番組ではやはり進行方向にある大都市に落ちる危険を注目していたが、「運良く」燃料切れで人の居ない牧草地に落ちてくれた事になっていた。
...本当にそうだろうか?
空軍の戦闘機がついていて、行く先に大都市があり、乗客は既に全員絶望との確信があり、と言う状況の中で、何時起こるか判らない燃料切れをじっと待つだろうか?
当時言われていた、「安全な(他に巻き添えを食う人が居ない場所に)場所に撃墜したのではないか」との噂の方が、やはり真実に近い気がしてしょうがない。
飛行機自体の事故原因が、「部品がバラバラになり過ぎていて解明されなかった」と言う状況が、そんな噂に真実味を加えている。
また、ペイン・スチュアートが最後の瞬間にどうしていたのか...と言う事も全く判らないままだったのも事実解明の番組としては物足りない。
全米オープン2勝目を上げた直後の悲劇的な事故は、人生の光と影のあまりにも象徴的な物語として、ペイン・スチュアートの名前は人々の記憶に残って行くんだろうけれど。
でもペイン・スチュアート本人は、(いくら「功成り名遂げた」とはいえ)こんな形では絶対に終わりたくは無かったはずだ。
俺達だって、そんな劇的な最後なんて...絶対にいらないよなあ(栄光にも縁は無いけど)。
ドタバタしていてみっともなくても、ゴルフ続けている方がずっと良いに決まってる。

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2016年10月 7日 (金)

忘れられないプロゴルファー...44「涂阿玉」   (2016年2月16日)

Bu160217a涂阿玉...ピンクの上下が168センチ55キロのスマートな体型によく似合い、「ピンク・パンサー」と呼ばれた台湾出身の女子プロ。
キャディーから始めて、淡水ゴルフクラブで台湾ゴルフ界の重鎮、陳金獅プロに出会いプロになった苦労人。
キャディー時代に客から貰った数本のクラブで始めた為、一本のクラブで色々な打ち方を自然にするようになったというのは、あのセベ・バレステロスの育った環境と良く似ている。

日本のツアーにデビュー後通算58勝、1082年から1986年迄5年連続賞金王、その後1989・1991年の2回を合わせて計7回賞金王と言う恐ろしい記録を持っている。
その強さはパーシモン時代に男子プロにも負けなかった飛距離と、アプローチ・パッティングの上手さも上げられるが...私が気に入っていたのは、その勝負所での「パンチショット」!
当時の女子プロで、そのショットを見てほれぼれとしたのは彼女だけ...当時素晴らしいものには、樋口久子の完全スエー打法とか、岡本綾子の「何を打ってもおんなじスイング」などがあったけど、その球筋が「美しい」とか「凄い!」とか感じたのは涂阿玉のパンチショットだけだった。

高いトップでほぼシャットに上げたアイアンを、身体の近くに引き落としながらインパクトでフェースの向きを変えずに打ち抜いて行く....打たれたボールは他の女子プロのボールとは全然違い、地を這うように低く出たまま目標迄糸を引くような球筋で風の中を突き進んで行く。
風が非常に強くフェアウェイも硬い台湾のコースに育てられたショットだと言われていたが(台湾出身のプロは低い弾道のショットが上手い人が多い)、女子プロでパンチショットを打つ選手は当時も今でも殆ど居ない。

彼女は普通にアイアンを打つ時は高いフィニッシュをとる女子プロらしいスイングだけど、此処一番で狙うパンチショットは低く抑えたフィニッシュとなり、それが実にカッコいい。
タイガーなんかがやった為に、「スティンガー」とか言われて、まるで新しい打ち方のように思っている人も多いらしいが、多分「勝つ為」にこの手のショットを一番有効に使ったプロは彼女だろう。

しかし、このパンチショットはいかに強いとは言え女性にとっては、かなり腕や肘に負担のかかるショットだったはず...これだけの所為ではないかもしれないが、最近は腰や手首などに重い故障を抱えているそうで、往年のショットをもう見る事が出来ないのが残念だ。

彼女の強い時には殆ど敵無しの状態だったために、一部に排他的な声があがったりもした...しかし、彼女は当時のインタビューで「台湾から出稼ぎに来ている」のではなく、「いつも日本ツアーの一員となり代表となって戦っている」と語り、実際に他のツアーとの対抗戦などでは、誰よりも日本ツアーの代表として熱く戦っていた。
最近になって日本にも「ゴルフ殿堂」が誕生し、日本のゴルフにおいて大きな実績のあったゴルファーが順次選ばれているが、この涂阿玉も「日本のゴルフ殿堂」入りに「日本ツアーの一員」として十分な資格があるだろう。

パンチショット...所謂アメリカンゴルフと対極を成すような「昭和ゴルフ」の技なのかもしれないが、こいつは上手く行くと実に気持ちが良い。
ショットに行き詰まっている人はちょっとやってみるといい。
意外にスイングに開眼出来るかもしれないぞ(勿論責任は持ちませんけど)。

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忘れられないプロゴルファー...43「友利勝良」   (2016年1月26日)

Bu160126友利勝良...1954年10月25日生まれ、沖縄出身。

プロゴルファーとしてはかなり遅い21歳からゴルフを始め、29歳でプロ入りした。
初優勝は1987年に33歳で九州オープン。
1995年に41歳で日本プロゴルフマッチプレーに優勝。
この試合で日本ツアーの5年シード権を獲得し、翌年ヨーロッパツアーのQ・スクールに合格して、42歳で日本人初めてのヨーロッパツアーシード権を獲得した。

それから友利は42歳の1997年から46歳の2000年迄、たった一人でヨーロッパツアーに参戦し続けた。

友利のスイングは、トップで上半身は頭ごと飛球線後方を向いてしまい、顔はボールの方を向いていない。
見ていると上体ごと「あっち向いてホイ!」と言う感じに後ろを向いているように感じるが、右膝は流れずにしっかりと上体を支えている。
そこから「手を真っすぐ下ろす」と言う言葉のお手本のように手を下ろしながらターンして来るが、敢えて上半身と下半身に大きな捻転差は作らずに、手を静かに低く振り抜いて行く。
インパクト付近でヘッドはアッパーでもなくダウンでもなく真っすぐにボールを押し込んで行く...そして独特の低く曲らないローボールがフェアウェイを捕らえて行く。
友利の「絶対的な飛距離は無いが、風が強い時程強い」と言われる持ち球は、確かにAONが全盛だった時代にコースセッティングが「飛びさえすればラフでも問題ない」日本ツアーより、変化に富んだヨーロッパツアーの方が向いているように思われた。
一見した風貌は、日に焼けた色黒の肌に眉毛が濃く、いかにも厳つい風貌でありながらいつも目尻に深いシワを刻んで照れたように笑っている...それは、なんだか「気の弱さ」さえ感じさせた。
しかし、彼の行動はいつもチャレンジ精神に溢れていて、ヨーロッパツアーメンバーとしての挑戦は前例も無く殆ど応援のないたった一人の挑戦で、その内面の強さは今のチヤホヤされている有象無象の若手プロゴルファーに「見習ったらどう?」と言いたくなる程。

4年間のヨーロッパツアーで、残念ながら優勝はなかった。
最高の成績は1999年10月のサラゼン・ワールド・オープンの2位。
惜しかったのが1995年の全英オープン。
強風の中、二日目迄優勝したジョン・デイリーと並ぶ首位タイ...結局最後は24位に終わったが、友利にとって当時「バカバカしい程飛ばす」と言われていたジョン・デイリーとの戦いだったのが不運だったと思う。
友利は1998年の全英オープンでタイガー・ウッズと一緒に回った時にも、9オーバーの79を叩いて大崩れしている...多少の飛ばし屋相手なら持ち前のロー・ボールでクールに攻め続けることが出来ても、デイリーやタイガーなどの桁外れの飛ばし屋相手だと彼の「気の強さ」「負けず嫌い」を抑え切れなくなって、「コントロールされたローボール打ちの自分」を見失ってしまったのではないだろうか。

2001年の帰国後、2003年にJCBクラシック仙台で49歳で優勝。

残念なことに、彼がヨーロッパツアーに参戦していた間、日本のテレビや雑誌ではメジャーの全英オープン開催時以外に彼が映像で見られることは殆ど無かった。
女子ツアーの岡本・野球の野茂のように派手に活躍すれば、パイオニアとして脚光を浴びたのかもしれない...彼はしたたかにしぶとく独りで戦い続けたが、派手な活躍をする事は出来ず...日本の似非ジャーナリズムに注目されることはなかった。


当時、コントロールされたローボールと渋い小技で戦う彼の姿を、「なんとか見たい」と思っていたのは俺だけじゃなかっただろう。

...彼のローボール打ちの職人技は、今でもシニアツアーで見ることが出来る。

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2011年1月17日 (月)

忘れられないプロゴルファー42「ビジェイ・シン」(2009年7月6日)

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ビジェイ・シン、フィジー出身のインド系プロゴルファー。
最年少のゴルフ殿堂入りを果たし、タイガー・ウッズを抜いて世界一位に君臨したこともある超一流のプロゴルファー。
アメリカツアーだけで34勝し、世界では57勝を挙げている。
メジャー勝利も1998年と2004年に全米プロ、2000年にはマスターズに勝って3勝を上げている。

インド系で肌は浅黒く、ある意味でタイガーの好敵手ともなる立場...

こんな風に書いて行くと、栄光に包まれたアジア系のスーパースターになるはずなのに...この男には、光の当たる部分と影の部分がある。
彼はアメリカツアーで成功する前に、オーストラリアンツアーとアジアンゴルフサーキットの二つのツアーから追放処分を受けている。
世界で二つのツアーから追放処分を受けるゴルファーなんて、そういるもんじゃない。
オーストラリアンツアーでは、色々な人やホテルなどから借金を重ねて、それを全く返さなかったということで追放処分。
アジアンゴルフサーキットでは、「スコア誤記」で追放処分。
この「スコア誤記」というやつ、普通のスコア誤記では失格にはなっても「追放処分」にはなるはずがない。
よっぽど悪質ということで降りた処分だろう。

それから暫く時間をおいて、乗り込んだアメリカツアーで遅咲きの35才で初優勝する。
その後はサム・スニードの持つ「40代での勝利17勝」という記録を破り、賞金王にも世界一位にもなる訳なんだが。

「フィジーの怪人」と呼ばれ実績の面では超一流のゴルファーなのに、何かもう一つすっきりとした輝きを感じずに人気が出ないのも、そんな過去がいつもついて回るためなのかも知れない。
最年少でのゴルフ殿堂入りの時も、「なぜタイガーより早く?」「成績はともかく、人格は?」との異論が多かったとも聞く。

正確なフェードで飛ばし、ツアー一番の練習の虫として知られ、今ではアメリカツアーの顔の一人なんだけど...彼の影の部分は消えることがあるんだろうか?
ゴルファーにとっての、一番大事な部分を彼は汚してはいなかったか?
彼は汚名挽回をしたんだろうか?
我々と同じアジア系のゴルファーとして、彼を応援しようという気持ちにそれが引っかかる。
...その過去の汚名が、誤解であり無実であることを願うしかないのだが。

オーストラリアンツアーの借金の方はその後に完済したいうことだけど...


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「そんな影の部分があるなんて
知りませんでした
しかし、追放処分になっていながら
現役バリバリの時に
ゴルフ殿堂入りってのは
如何なものかと思いますが・・・
又面白い話があれば
ぜひ、載せて下さい。
Posted by:toy at 2009年07月06日(月) 11:52

toyさん、こんにちは。
ゴルフ殿堂入りするときには、当然そういうことも考慮されて調べられるでしょうから、結果として大きな問題にはならなかったということかも知れません。
が、世界の二つのツアーから追放処分を受けたゴルファーが、「最年少」でゴルフ殿堂入り(成績では当然タイガーの方が上なのに)できた、ということが不思議なことだと思います。
Posted by:大叩き男 at 2009年07月06日(月) 17:21

ビジェイ・シンって、そんな過去があるんですか?知りませんでした。
現時点でも追放処分って有効なんですかね?
一説には、アジアンツアーの名誉メンバーに選出されて名誉回復されているという話しも
Posted by:MR-G at 2009年07月06日(月) 23:06

ん? イラストのタッチが少し違って見えます
シンにそういう部分もあったんですね~
初めて知りました
並の精神や神経ではない事は確かですね
Posted by:Shu at 2009年07月06日(月) 23:07

NR-Gさん、こんにちは。
アジアンツアーの名誉回復の話、知りませんでしたが,ゴルフ殿堂入りするのに追放処分のままというわけには行かないでしょうから、その時に回復したのかも知れませんね。
しかしプロゴルファーとしては、半端じゃない過去を背負っている人物であることは確かですね。
過去の失敗も、その後の努力と精進で回復できる、という見本かも知れませんが。
Posted by:大叩き男 at 2009年07月07日(火) 08:36

Shuさん、こんにちは。
包丁一本...じゃないですが、クラブを担いでどん底から栄光の頂点まで這い上がった男の話、なのかも知れません。
イラストのタッチはリアルっぽい物とデフォルメした物の組み合わせ、といいますか(笑)...
Posted by:大叩き男 at 2009年07月07日(火) 08:39


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忘れられないプロゴルファー41「デービス・ラブ3世」(2009年6月15日)

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デービス・ラブ3世。
1980年代から1990年代まで、フレッド・カプルスやグレグ・ノーマンと共にロングヒッターとして時代を作ったプロゴルファー。
だが、地味だ...何か華というかスターのオーラを感じないのは、俺だけだろうか。

有名なゴルフ一家に生まれ、ゴルフをやる環境としてはこれ以上ないようなところで成長した。
父親の「2世」が、マスターズに出場した(1964年4月9日ー12日)翌日に生まれたのも、そういう星の下に生まれた運命みたいなものを感じさせる。
192センチの(一部では187センチともいわれている...どっちだ?)長身と、父親が高名なプロで有名なコーチである事から、ごく当たり前にプロゴルファーになったようだ。

米ツアーで20勝して、永久シード権を持つ。
その他の試合で11勝..ただし何度も2位になりながら、メジャー勝利は1997年の全米プロの1勝に留まる。
マスターズで何度もスーパーショットをしているのをテレビで見ている...しかし、度々優勝争いに加わりながら、何時もどこかでティーショットを左に曲げて脱落していくのばかりが記憶にある。

デービス・ラブは、米ツアーで最後までパーシモンドライバーを使っていたプロとして知られている。
そのスイングはアップライトで、インパクトゾーンで強くリストターンする、謂わばパーシモンドライバーの打ち方そのもの。
それが、ここ一番の左へのミスの原因なんだと評論家の人たちは言う。
何でも左へのミスの多さは、全シード選手中のビリから2番目か3番目らしい。

どうも印象の薄い中、今でもパーシモンのドライバーを使っていたら、目立つし格好良いんだけれどなあ...


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こんちわ(=^・・^=)
 記事が柿木・柿木の続きましたね
 それを 読むと柿木打ちたくなります。
 200年もの 柿木 打って見たい
 流石に 柿木の需要が無いとは言え
 その クラスになると
 コレクターズアイテムで 
 安価な入手は無理でしょうね。
Posted by:選ばれし物 at 2009年06月15日(月) 17:14

選ばれし物さん、こんばんは。
パーシモンの本当によい物は、「名器」として世界中のコレクターズアイテムですから、安くは手に入らないでしょう。
綺麗じゃなくて実用にも「どうか?」なんて奴は時々捨て値で置いてあったりしますが。
名器を良い状態で手に入れられる可能性があるのは、FWでしょう。
2wとか4wなら可能性はあります。
Posted by:大叩き男 at 2009年06月15日(月) 23:52

ラブⅢがメタルドライバーに変えた直後の
インタビュー記事をチョイスで読んだ記憶があります。

「300ヤード飛ばせればまだパーシモンを使うけどね。(笑)」
なんて内容だったと思いますが。((笑)はイメージ)
相方のカプルスのPGAシニアでの活躍を見るにつれ、
シニア入りの直後だけでも、
パーシモンドライバーで活躍してくれないものかと、
想像して楽しんでます。
(勝負に対して不真面目だと非難されるかもしれませんね。)
Posted by:たま at 2010年07月08日(木) 18:01

たまさん、こんばんは。
難しいでしょうねえ..。
カプルスの活躍だって、レギュラーツアーでも通用する300ヤードショットのおかげですからねえ。
多分カプルスだってパーシモンだったら270ヤードがやっとでしょう。
ラブⅢだって、パーシモンじゃ260ヤードくらいか...
それこそ、シニアツアー全体がパーシモンに糸巻きボールに限定する試合をいくつかやってくれたらいいのに、なんて思っていますけど...無理だろうなあ。
Posted by:大叩き男 at 2010年07月08日(木) 21:06 」

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忘れられないプロゴルファー40「カルビン・ピート」(2009年6月8日)

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カルビン・ピート、PGAツアー12勝。
タイガー・ウッズが登場する前の、黒人最高のプロゴルファー。
なにより目を引くのは、1981年から1990年まで10年連続フェアウェイキープ率1位という、群を抜くショットの正確性...その数字は「フェアウェイキープ率82パーセント以上」を誇る。

貧民街の黒人家庭の19人兄弟の7番目として生まれ、兄弟を食わせるために学校は日本でいえば中学校で中退、肉体労働を続ける。
やがては車で流れ歩きながら、宝石や衣類を売って歩く生活を送り、宣伝のためにと前歯に2個のダイヤモンドをはめ込む。
23歳の時に結婚、と同時にゴルフに接するが、本格的にゴルフを始めたのは二クラスがゴルフで莫大な金を稼ぐのを知ってから。
家を売り払ってトレーラーハウスに住み、先生をやっていた女房に食わせてもらいながら、ゴルフを自己流で練習する...10年後、3回目のプロテストに合格しPGAのメンバーとなり、4年後にツアー初勝利をあげる。
この当時の彼の格好は、ベン・ホーガン並のハンチングにウェスタンブーツ、黒いサングラスに、前歯に2個のダイヤモンドの入れ歯、という「トンデモ」スタイルだった。
さすがにその格好は、奥さんの強い反対でダイヤモンドも取って当たり前の格好に戻すが、そんな格好をしていた動機には、当時まだPGAに残っていた黒人選手への人種差別に対する反発もあったようだ。
なにしろ、1950年に改正されるまで、PGAメンバーは「白人のみ、コーカサス人種のみ」となっていた。
カルビン・ピート自身、「ライフルで撃ち殺す」と脅されたり、トレビノがマスターズでロッカー室に入れずに、駐車場で靴を履き替えてコースに行った、なんて事さえあったのだから。

カルビン・ピートのスイングは、子供の頃に左肘を複雑に骨折したために、左腕がまっすぐ伸びないという特徴がある。
そのためにテンポも速くできない点と合わせて、練習量の多さでショットの正確性を高めていくことしかできなかった。
飛距離は最大で250ヤード,フェアウェイをキープしなければ勝負にならなかったろう。

後年、珍しくショットが曲がり続けたラウンドでNRしたことが、数字が悪くなることから逃げるためだと非難されて、問題になったりした。

今はシニアツアーで、相変わらずのフェアウェイキープ率でまわっているようだけど。

...カルビン・ピートは、今の「タイガー・ウッズの時代」を、どう感じているんだろうか...


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「こんばんは
当時、まだ自分は子供でしたが、黒人選手だったせいか、
記憶は鮮明です
よく日本に来てましたよね。
パイオニアとして、大変な苦労が
あったわけですね。
Posted by:海豚イ社員 at 2009年06月08日(月) 23:51

海豚イ社員さん、こんにちは。
日本にも来ていましたね。
タイガーほどのインパクトはなかったんですが、ともかく正確なショットを打つ、という印象がありましたね。
彼は黒人の「成功物語」の典型の人物なんだそうです。
貧民街から、ゴルフで成り上がったという...
Posted by:大叩き男 at 2009年06月09日(火) 10:07」

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忘れられないプロゴルファー39「岡本綾子」 (2009年5月25日)

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岡本綾子...1951年4月2日、広島生まれ。

日本で最初の海外で「世界基準で戦ったアスリート」。
彼女の後に、野茂が出て、中田が出て、イチローが松井が...と道は出来ていった。

彼女が登場する前までは、女子プロゴルフ界はキャディー出身のプロが殆どだった。
そこに、ソフトボールで国体優勝したチームのエースで4番という、傑出した運動能力を持った岡本が飛び込んできた。
左利きだったのを右利きに変え、73年に22才で池田CCに入った岡本は、翌74年の10月の2度目のプロテストに合格してプロになる。
ゴルフを始めて2年も経っていない快挙だった(ただ素質だけではなく、暗くなっても懐中電灯の明かりでパット練習をやっていた、なんて言う伝説は沢山あるらしい)。

そして75年には初優勝、79年には日本女子プロゴルフ選手権優勝、80年には賞金女王、と一気に日本女子プロのトップに駆け上がって行く。
しかし、彼女の凄いところはプロになったときから、アメリカで戦いたいという意志を持ていたこと。
これを公言したために他の先輩プロから、色々と「いじめ」にあった、なんて言う噂もあった...休会届けを出してアメリカに渡るときも、後年のプロ野球の野茂の時と同じように決して好意ばかりで送られたわけではなかった。

81年からアメリカ女子ツアーに参戦。
アメリカツアーで通算17勝を挙げる。
その間1987年には、米国人以外では初となる「米ツアー賞金女王」となる。
しかし、メジャー競技には何故か勝てずに、単独2位が4回、2位タイが2回という結果を残すのみ。
特に87年のデュ・モーリエでは6打差のリードを最終日逆転負け、同じく87年の全米女子オープンでは3日目トップも最終的には3人のプレーオフとなり、2位に終わった。
(ただ、84年に全英女子オープンに勝っているから、今ならメジャーに勝ったことになる?)

順調すぎるように見える岡本だが、ソフト時代からの腰の酷使がたたり、84年には腰痛のために入院し、85年にはパパイア・インジェクション法という腰の手術を受けている。
怪我の功名というか、この腰の手術の後の岡本のスイングは、それ以前のパワフルなスイングから「パーフェクトスイング」とプロ仲間から言われるほどの、柔らかく膝を使ったスムーズなスイングとなる。

ゴルフ界では、彼女の後も続々とアメリカツアーに参戦する女子ゴルファーはいるけれど、まだ彼女の成績を上回るゴルファーは一人も現れていない。
(宮里や上田の苦戦の様子を見ていると、彼女のようなゴルファーはもう出ないかも知れない、なんて感じる)
今は女子プロ協会の仕事が忙しいようだけど、またあの素晴らしいリズムのスイングを試合で見てみたい、と思うのは俺一人ではないだろう。
...関係ないけれど、人間的にも魅力的な女性だと思っていたのに、独身を通しちゃったなあ...ソレンスタムみたいに、違う幸せも掴んで欲しかったんだけど。


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「トーナメントで活躍する姿は
余り記憶にないですけど
TV 12ch
夜のゴルフ番組は見ていました 
Posted by:toy at 2009年05月25日(月) 11:12

こんにちは。
彼女がアメリカで賞金女王になった頃、週刊文春のグラビアで
特集記事を組んでました。
そのタイトルが「いやぁ~岡本綾子って可愛いんだね」。
今でもハッキリ覚えてます。
確かに、私生活でのショットなんか、なかなか良い表情を
してました。
本業以外での取り上げられ方が、今から思うと??ですが、
女子ゴルフへの認識を広めたってことでは良いのかな・・
最近例の店で、彼女のスイングレリーフ見たばかりなので、
なんだか親しみわいちゃう、今日の大叩きさん記事でした。
Posted by:ばたやん at 2009年05月25日(月) 16:55

岡本綾子、大好きです!
彼女がプロになって、ダイワボウが作ったゴルフ場に勤務してたのが赤穂国際GCというコースなんです。
私の実家の近くにはその当時から岡本綾子が通ってた店とかが色々あるんです。
まぁ、そんなの別にして、競技者としての姿勢をホントに尊敬してます。彼女こそ、大叩きさんの仰る通り本物のパイオニアだと思いますね。
Posted by:ひろみろ at 2009年05月25日(月) 21:53

こんばんは。
全盛期の頃は、USLPGAの放映も少なくて残念でしたけど、今だったら大騒ぎの活躍ですよね。
TVの解説も好きですね~
アナウンサーの間の抜けた質問に苦笑するのが面白です(笑)
Posted by:koba at 2009年05月25日(月) 22:19

toyさん、こんばんは。
テレビの彼女の番組では、何となく気の抜けたのんびりとしたキャラクターでしたよね。
Posted by:大叩き男 at 2009年05月26日(火) 00:44

ばたやんさん、こんばんは。
そう言えば、ばたやんさんの記事にも登場していましたね。
もうちょっと彼女のキャラを、上手くマスコミが伝えられれば良かったんですが。
休会届けを出してアメリカに渡った彼女を、一部ゴルフ誌が良く書かなかった部分もあったので、彼女もマスコミを避けているようなところがあったのが残念です(この辺はプロ野球の野茂野ケースと似ていますね)。
Posted by:大叩き男 at 2009年05月26日(火) 00:50

ひろみろさん、こんばんは。
パイオニアの悲劇と栄光を、彼女ほど味わった人もなかったんじゃないかと...
一般の世界を目指すアスリート達は、もっと彼女に感謝するべきだと思います。
ゴルフ界でも、もっとその軌跡を認められるべき人だと思うんですが。
Posted by:大叩き男 at 2009年05月26日(火) 00:54

kobaさん,こんばんは。
今だったら、どんな騒ぎになっているんでしょうかねえ...
彼女が活躍した頃は、やはりまだゴルフは普通の人が気楽にやれるものではなかったですからねえ...
Posted by:大叩き男 at 2009年05月26日(火) 00:57

こんばんは
私は20年前、父親に連れられ初めて練習場に
見習うべきは、岡本綾子さんのスイングと
しきりに言ってたような記憶が
NHKでゴルフレッスンやってましたかね
岡本さんの米国での活躍、当時は日米変わらんと
思ってましたが、今振返ると凄いことですね
Posted by:海豚イ社員 at 2009年05月26日(火) 01:07

海豚イ社員さん、こんにちは。
腰の手術をした後の、膝を柔らかく使ったスイングは、プロの間で間では「パーフェクトスイング」と言われるほど完成度の高いスイングだった...今でも私はそう思っています。
それに引き替え、今の自分のスイングは(泣)。
これから、岡本並みに米国で活躍できるプロは...出ないでしょうねえ。
Posted by:大叩き男 at 2009年05月26日(火) 09:25

こんちわ (=^・・^=)
 アヤコさんの 柔らかスイング
 フニャスイングと言われていた記憶が
 NEC提供の ゴルフ番組(タイトル忘れました)の
 スキンズマッチは良く見てました。
  前の記事の 私の好奇心を満たしていただき
 ありがとうございました。
 なんとなく 人物像が私の中で浮かんできました。
 Posted by:選ばれし物 at 2009年05月26日(火) 10:00

選ばれし物さん、こんにちは。
柔らかスイング...私は正反対...多分。
理想と現実は何時も違う(笑)。
Posted by:大叩き男 at 2009年05月26日(火) 12:03 」

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忘れられないプロゴルファー37「ハル・サットン」 (2009年5月11日)

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ハル・サットン、1958年 アメリカ、ルイジアナ州生まれのプロゴルファー。

...まったく。
別に共感したり、好きだとか言うんじゃないんだ、ハル・サットンは。
そりゃあ、俺の個人的な僻み,ねたみ、やっかみ、嫉妬があるんだけれどね。

生まれは...石油王の御曹司でアメリカ有数の大金持ち。
学生時代から、試合には自家用ジェット機で行っていたという。
プロになってから金を稼いで、自家用ジェット機を使うようになったプロゴルファーはアーノルド・パーマーの時代から結構いるけれど、まだ学生のうちから自家用ジェット機を使っていたゴルファーってのはそうはいないだろう。
おまけにゴルフの才能にも恵まれて、81年にプロ入りしたあと83年には賞金王になり、85年には全米プロに勝つ。

彼らしいエピソードは、89年から93年頃にかけて大スランプに陥ったときのこと。
レッドベター、ブッチ・ハーモン、ゲーリー・スミス、ジム・マクリーン、ジミー・バラード、フロイド・ホーガン、ジャック・バークなどの当時世界一流のレッスンプロに片っ端からコーチを受けた、というもの。
まあ、金が腐るほどあればね...という話だが、このスランプの原因も、一説によると彼のプレーボーイぶりがすさまじく、この間に何回も結婚、離婚を繰り返したためだと言うから、まあ「勝手にしやがれ」なんだけど。
だが、「なんの苦労もなく育った大金持ちの子供は、屈折もせずに好人物に育つ」と言われているとおり、この男もツアー仲間からの信頼はあったらしく、2004年にはライダーカップのキャプテンにも選ばれている。

他には、スランプを抜けたあとの2000年になってからは、タイガー・ウッズに勝ったりもしているから、年をとってからも強いゴルファーであったんだろう。

そんな風に、嫉妬の対象になるしかないような男だけど、なんというか...185センチの身長の割に足が短く胴が長い。
白人には珍しく胴長短足で手も短い体型(おまけに腹も出ている)は、なんだか我々の体型に近くて、そこだけは親近感を持ってしまう。
その体型のためか、大スランプの前は飛ばしにこだわるゴルフをしていたが、距離を捨てて70-80パーセントの力でローフェードを打つようになったことが復活のきっかけであったといわれている。
彼の体型にはローフェードが一番向いている、ということは同じような胴長短足の我々も、これがヒントになるのではないだろうか。

今はシニアツアーで活躍中...ほかに色々な事業も展開中の、ビジネスマンでもある。
やっぱりゴルフは、ただの趣味なのかね...この男にとって。


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「こんばんは。石油王の御曹司のハル・サットンがかつて賞金王になった時はスリムなプロゴルファーだったような気がしますが、今は大叩き男さんのイラストのような体型ですか?
自分は典型的な胴長短足なので、やっぱりローフェード(スライス...)か
Posted by:NOB at 2009年05月12日(火) 00:0

NOBさん、こんばんは。

確かに、あの頃は胴長短足は同じですが、ずっと細かったですね。
今、シニアで見る格好はイラストのような感じだと思います...言われてみれば、俺もこんな感じになってきた...5-7キロは減らさなくては(汗)。
Posted by:大叩き男 at 2009年05月12日(火) 00:08 」

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忘れられないプロゴルファー36「へイル・アーウィン」(2009年5月4日)

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ヘイル・アーウイン、1945年6月3日生まれ。
PGAでメジャー7勝(全米オープン3勝)を含む20勝。
シニアツアーで28勝以上(まだ勝つだろう...)という、息の長いプロゴルファー。

若い頃(レギュラーツアー時代)は、その端正な顔に眼鏡のやたら目立つ(似合っている)スタイルで「プロフェッサー」というあだ名が付くほど、プロゴルファーらしからぬ雰囲気を漂わせていた。
一見、線が細く華奢に見えるが、大学時代はアメリカンフットボールのディフェンスで代表に選ばれるほどの、体幹の強さを持つ。
まさに「羊の皮を被ったオオカミ」のような男。

それほどの飛距離はないが、プロが惚れるほどのリズムとタイミングの良いスイングで、息の長い活躍をする「鉄人」ゴルファー。
1990年には45才で全米オープンを獲り、シニアツアーにはいると97年98年連続で賞金王を獲るなどの大活躍を見せ、既にシニアでの勝利数はレギュラーツアーよりも多く、まだまだ勝利を積み重ねる可能性を持つ。
派手ではないけど、「玄人好み」なゴルファーの代表だろう。

シニアツアーでの活躍の原因の一つに、トレードマークの眼鏡から、(最近流行の)近視の手術を受けて眼鏡なしでゴルフが出来るようになったのが大きいとも聞く。

彼自身が語る、「60才を過ぎてもまだ活躍できるスイングの秘密」は、「スリークオーターショット」だという。
「スリークオーターや数センチ短く握ってスイングすると、飛距離はフルスイングとそれほど変わらず、ミスしたフルショットに比べればずっと飛ぶ」んだそうだ。
もちろん正確性はフルスイングよりも良くなるという。
特にアイアンでは効果覿面というから、やってみる価値はあるのでは?

まあ、もう一つ、俺から見るとこの人は体型が若い頃と殆ど変わらない、っていうのが「長く活躍できる」原因の一つであるとも思う。
スイングに歳を感じさせるところは無い...若い頃と同じ身体で若い頃と同じスイングが出来ている。
...それに引き替え、醜く出てきた自分の腹を見ながら、「これじゃあ、いかん」と思ってはいるのだが...


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忘れられないプロゴルファー35「カーチス・ストレンジ」(2009年4月27日)

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カーティス・ストレンジ、PGA17勝。
そのうち1988年、1989年に全米オープン2連覇を達成したプロゴルファー。
これは1950年、1051年にベン・ホーガンが達成して以来38年ぶりで、そのあとは現在まで誰も達成していない。

しかし、ある意味で時代の顔ともなるような実績を残したゴルファーなのに、なんと存在感の薄いプロゴルファーなんだろう。

アマチュア時代は、けっこう「飛ばし」でアマ界を席巻したのに、プロになって大幅なスイング改造をして、「正確性」に重きを置いたスイングを自分のものとした。
それと同時にコースに対する攻め方も、冒険を一切しない、一般受けしない地味で確実なゴルフをすることに徹底した。
技術的には、両腕と肩で作る三角形を崩さず、レートコックで手と手首の動きを抑え、スイング中殆ど頭を動かさずに、一定の速さでヘッドを走らせる事を徹底する、というもの。
本当にどんなときでも、同じリズムで同じスイングをすることが、彼の特徴だった。
その結果が88年、89年の全米オープン連覇だった...

しかし、見ているにはつまらないゴルフだった。
同じようなタイプの、ニック・ファルドより何倍もつまらないゴルフだった...まだファルドの方が人間味あるとさえ感じたほど。

試合の名前も場所も覚えていないけれど、当時テレビで中継を見ていて、最終日1打リードされている最終パー5の2打目だった。
クリークか池越えのセカンド、相手はもう2オンもしくは2オンに近いところまで打っていて、バーディーは確実というところ。
1打差だから、自分も2オン狙ってイーグルなら追いつく。
3オンではほぼ100パーセント追いつかない...距離は彼でも十分2オン可能と解説者が言う。
...しかし、ストレンジはそれまで3日間ここを刻んでいたのと同じように、躊躇なく刻み、当たり前のように負けた。
このシーンは、以前チップ・ベックがマスターズで刻んでブーイングを受けたのと同じ...ストレンジもそういう「チャレンジ」はしない男だった。
彼にとって、どんな時でも自分の決めた攻略法からは外れないのが「彼のゴルフ」だったんだろう。
それはそれで、本当は凄いことは百も承知で...見ている我々には「つまらないゴルフ」の典型だった。
彼の試合なんぞ見ても面白くない...そう思ったのは俺だけではなかったようだ。
あれだけの結果を残しながら、殆ど話題にも上らず、それなりにハンサムな風貌であったにもかかわらず、彼の顔を覚えている人さえ少ない。

1988年、1989年の全米オープン連覇のあと、ストレンジは全く勝てなくなって、いつか噂も聞かなくなった(完全な「燃え尽き症候群」といわれた)...最近チャンピオンズツアーなんかでその元気な姿を見ることは出来るけど。


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「こんばんは
勝てようが勝てまいが、自分の立てた戦略をジタバタ変えない...
なかなか今の選手には居ないタイプのゴルファーかもしれませんね
キライじゃないけど...たしかに印象が薄いデス
Posted by:Shu at 2009年04月27日(月) 23:00

Shuさん、こんにちは。
自分の決めた攻略法を崩さない、というの「ゴルファー」のあり方としては、それは見事なものだと思います。
ただ、優勝がかかったここ一番で、やれば出来る可能性が高くてもチャレンジしないプロというのはちょっと...
プロというのは「見せる」事も仕事のうち、と思うんですが。
それなのに絶対そういうチャレンジをしないプロは、(なんだ、自分の稼ぎのことしか考えていないのか)なんて思ってしまいますよね。
失敗して3位以下に落ちるより、2位確保優先、なんて。
...見ている我々が夢を見られません。
Posted by:大叩き男 at 2009年04月28日(火) 12:24 」

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