松村信吾の発掘ノート

2016年10月 5日 (水)

ダヴィッド・フードの補足(掘っくり返し屋のノート〜11)  (2015年6月7日)

Bu150607

以前、戦前の来日プロ、ダヴィッド・フードについて書いたが、その後も史料を探していた所、彼は単なる来日プロでは納まらない人物のように感じた為、今回はその事の紹介をし、以前書いた評伝の補足としたい。

・フードの経歴と活動範囲
先年の初秋であったか、『Golf Dom』1926年の合本を読んでいたところ、幾つかのフードの活動に関する紹介と、8月号にフード本人の寄稿文『Some Remarks on Japanese Golf(英文、元の掲載紙不明)』を発見した。
これは日本からカナダへ渡ったフードが、(海外の雑誌に?)寄稿した日本のゴルフ界についてのレポートだが、これらや後年の記述をベースに彼の活動を書いて見る。

『Some Remarks on Japanese Golf』によると、彼は、1902年からの24年のプロ生活の間、故郷スコットランドを始め、イングランド・アイルランド・ウェールズ・フランス・南ア・タスマニア・ニュージーランド・オーストラリア・フィリピン島(当時米領)・中国。そして忘れじの日本(更に向かっているカナダ)を渡り歩いたという。
これは廻った順番かどうかはわからないが14の国と地域を廻っている事を鑑みると、『単なるスコットランド人プロ』というより『新旧両世界を股に掛けたゴルフ伝道師』という見方が出来るだろうか。

 私は前回の書き物でニュージーランドとオーストラリアに在籍していたのでは?と記したが、これはその裏付けになってくれるだろうし、宮本留吉がフードを『カナダのプロ』と書いたのも、日本を離れそちらへ向かった為だろう。

先に、彼と関係ありか?と挙げたフレッド“F.G”・フードは、ニュージーランドPGAのHPによると。St.アンドルーズ生まれで、1902年にニュージーランド北島(ロイヤル)AuckLandGCの初代プロと成って以降、悪天候下におけるプレーによる肺炎で亡くなるまで(1926年以降、享年46歳)の24年以上の間に、非公式ニュージーランドプロ二勝(1903,06公式は1920から)コース設計、レッスン、クラブ製造と精力的に活動し、1913年発足のニュージーランドPGAでは初代会長を勤めている。とある。

“F.G”はダヴィッドの兄弟でないのか?と考えているのだが。(移民プロ達が兄弟して新世界に続々乗り込んでいくのは珍しい事ではなかった)今のところ情報は得られてない。
又、PGA発足時の集合写真がHP上に有るのだが、キャプション(記事)が無いので誰が“F.G”なのか、又ダヴィット・フードもその中にいるのかも不明なのが残念である。
日本に来日した事については、『Golf Dom』1940年4月号『宮本の修業時代 丘人(伊藤長蔵?)』に1921年に東京GCがオーストラリアから招聘し、前後二回渡来した事が記載されている。ただ、東京GC年史に書かれていないのが気になるが。

フード本人によると、日本には4年以上居り、東京〜長崎間の各倶楽部でレッスンを行う。と記しているが、一時的な離日については書いていない。しかしフィリピンでのプレーの他、先の丘人の記述や『Golf Dom』1927年1月号P17 『Beginnerとしての二年有半(YS生)』に書かれているので、確かな事だろう。

・フードの国内での活動の補足
フード本人よると、日本滞在の4年間、東京〜長崎間で仕事をし、沢山のゴルファーを教えており。この年月(5年程とも)で日本においてゴルファーとコースが増えたことは驚くべきだ、と語り。赤星六郎と川崎肇を日本を代表するゴルファーとして紹介している。
この他、日本を離れる前から、日本人は自分が見てきたどの国のゴルファー達よりも(熱心ゆえの)クレイジーとも言っている。
主な仕事は先の評伝で書いたレッスンと同伴プレーであったが、これらの仕事は新しい話も有る。

フードは、宮内省の職員達に新宿御苑でレッスンを数度に渡って行ったが、侍従武官長・奈良武次の日記によると1922年10月12日に新宿御苑で模範プレーをした際に、摂政宮(昭和天皇)が彼のプレーを観覧されたという。(田代靖尚著『昭和天皇のゴルフ』内で紹介)
私が目にしたのは上の通り孫引きなので、最終的な確認が必要では有るが。昭和天皇がプロのプレーを見たのが、記録に残っている物では英国訪問時だけで有る事を考えると、これは国内プロゴルフ史上注目に値すべき事ではなかろうか。

宮本留吉は、『ゴルフマガジン』1975年3月号『日本プロ・ゴルファー人脈探訪3(柴田敏郎)』で茨木CC一門について語った際、フードのレッスンについて触れており、それによると彼の教えはスローバック主体のもので、リズムを強調していたというが、余りにも強調しすぎて、?楽部発起人の広岡久右衛門がダウンスウィングに移れなくなる病気に罹ってしまい、宮本はその矯正に閉口したという。
しかし彼のスローバックのレッスンが宮本のスウィングのバックボーンになり、茨木一門のプロのバックスウィングのリズムのよさは、フードから宮本に受け継がれたのか。と考えるほどだ。と、この記事の著者は記している。

西村貫一は彼との付き合いから、フードが語った話を色々と書き留めて居た様で、後述するコース設計関連や、ドライバーが無くてもブラッシーをティショットで使う有効性、ダウンワードブローにアイアンショットを打つ方法についてのQ&A等、雑誌に幾つか記事を残している。

なお、1925年末に京都のゴルファーK.Y生が『憎まれ口—Pro.のLesson—(『Golf Dom 』12月号)で、フードによって起きた関西プロのレッスンフィ高騰を書いたが、翌年に茨木・舞子・鳴尾・甲南・京都関西の5?楽部が連合してプロのレッスンフィの改正をし、2月1日から実行された事により問題は解決した (『Golf Dom』1926年2月号P 13)

・フードのコース設計
彼は再来日時、正史に有るように茨木CCの設計を行ったが、途中で契約期限切れになって18Hの完成前に離れてしまっている。
しかし1925年4月初め、コース開きの準備としてローカルルール等を決める為の試打ちの際に同行している他、別の時であろうか、西村貫一に全ホールの攻略と、改造を有するホールについて語っており。これは西村が書きとめ、『Golf Dom』1926年5月号に『IBARAKI GOLF COURSE(英文)』として発表され、この中でフードは1・3・4番の延長と改造、12・18番の改造を挙げていた

更に彼は茨木CC以外にもコース設計(アドヴァイス)や改造を行っている。
1926年前後に長崎県諫早の長崎GCに関して、設計者(支配人)内田林市の相談相手となり。設計のアドヴァイスを行っている。
また、同コースを見に来るフードに、雲仙GLのゴルファー達がコース改造のアドヴァイスを求めようと、伊藤長蔵に頼み招聘をしている。

1926年5月21日、客船で長崎へ来たフードは来港と共に雲仙リンクスに直行。
プレー後、ホールに変化をつけるために3・5・9番ホールのグリーン新設と二番ホールの一新、旧グリーン及びティを使ったレイアウト変更を行い、これにより2778ydから3152ydへ、400yd近い延長となった。(Par36・Bogey38)
(『Golf Dom』1926年6月号P24-25『雲仙通信(1925年6月1日Y.H氏記)』より)
その後長崎GCへ行き、西村貫一は雑誌で『先日フードが行ってコースを設計したそうです。そうして大変に良いリンクスになるそうです』と記している。(『Golf Dom』1926年9月号P17『無題』より)
※長崎GCは元々雲仙GLをホームコースに発足した?楽部で、1933年時には諫早のコースと雲仙のコース二つを活動拠点にしていた(1933年版『Golf初心者の為に(原田立之助)』内、ゴルフ場案内より)

彼にとって雲仙は思い入れが強かったようで、日本のコース紹介でも『ゴルファーのパラダイス』で素晴らしいターフのコースと評し、一番多く文字を費やしている。また長崎GCはその土地について可能性を秘めたコースで、設計の内田氏がゴルファーのあらゆる望みを叶えてくれると確信している。と紹介している。
※ちなみに長崎GCは18Hの予定であったが、1928年4月3日に9Hで開場した。
ただ日時について当時の『Golf Dom』には9月1日にイン9H、3~5番が仮設ホールの2708yd、Par33・Bogey36で開場、今後3015ydの予定。とする記事が有る。
その後同コースは1930,33年に3103yd.Par36、1936年の上田治の改造後(3168yd Par37)、そして1943年の閉鎖まで9Hであった模様。

・フードの腕前・離日とその後
残された記事などを読むと、フードが日本を離れたのは、1926年6月中と見られる。もし、7月4日に行われた第一回日本プロ選手権に出場していたら、どうなっていたのだろうか?
プレーヤーとしては、前回書いたフィリピンでのコースレコードが二~三と、前回書いた程ヶ谷CCの(9H)開場競技の際に出した37・37=74や、アイヴォ・ウィットンとのマッチ(3&2でウィットン勝利)の他には、
ニュージーランド時代の1906年にオーストラリアOPで10位(初期の同大会は1位と二位以下のストローク差が激しかったが)。
駒澤(東京GC)で赤星鉄馬(赤星兄弟の長兄)が彼の真価を突き止める為、5ポイントのハンディを付け1ポイント十円(フードの負けならクラブ1本)のマッチを行った際に、赤星がアウト37で廻った上1ポイントを使い1UPしたが、インでフードに全てのポイントを使わされ、1Downであしらわれ、彼の余裕ぶりに感嘆した話(『Golf Dom,』1923年12月号『19Th Hole』)が有る位で、国内のプレーについて余り記録が無い。

ただ、伊藤長蔵が1925年の訪英の道中立ち寄ったコロンボのリッヂウェイ?楽部で、地元プロとプレーをした際、彼の腕前がどれ位なのか『よくてフード位に心得ておれば別に驚くことはあるまい』と心に決めた。というから、そこそこの腕前と見なしていたのであろうか。(『Golf Dom』1925年6月号『LinksからLinksへ第四信Spoonの古倫母より(C.I.生)』)
上記の事を鑑みるに、彼が日本プロに出場していたら、当時の国内プロのレベルを考えると、優勝とは行かなくても上位に入賞していたかも知れない。

彼が、日本を離れた時期について考えるには、この日本プロの日程が一つの目安に成っている。
というのも、当時の雑誌や新聞記事を読んでも、フードの不参加を残念がるような表現が無い事や、参加者は皆倶楽部所属のプロである事から、フリーの彼は参加できなかった。とするならば、その事に対する言及・批判記事は出ているはずなので、大会が行われるより大分前(7月2日の大阪毎日新聞に大会開催を報じる記事が掲載。又、参加者の安田幸吉は、6月半ば頃に所属?楽部役員から、大会が行われるから参加しなさい。と言われた事を回想記で振り返っている)に日本を離れた乃至離れる準備をしていた。と観るべきだろうか

フードは日本を離れた際、先の『Some Remarks on Japanese Golf』を書き、冒頭にカナダに渡ったことが紹介されている。
その為、カナダに渡ってからはどうなったのか。JGA資料室で蔵書の『American Golf Anuual 1930-31』内の『カナダの?楽部』の項目を読んで見たが、残念ながらフードの名は出てこなかった。(ただ、この手の年鑑の?楽部情報は、省かれている事もあるのが)
詳細な記録が有るかもしれないニュージーランド、オーストラリア及びカナダの三PGAに問い合わせる事ができればよいのだが…

フードは『Some Remarks〜』の最後に、ゴルフが裕福な者のゲームであると見做されるのは誤りであり、若者がゴルフに触れることが出来るようになる為の手伝いをしていく事は重要な事業であるとし。
日本はアウトドアスポーツに関して日が浅いが発展の下地を持っており、優れたプレーヤーを生み出す機会が有るであろう。と記している

以上が、現在私が補足分として紹介できる限界である。
彼の活動を考えると、摂津茂和氏が『日本ゴルフ60年史』に書いたように、来訪プロ中日本のゴルフ界に一番影響のあった人物であり、JPGA等でもっと顕彰をしてしかるべきではないか、と私は考えるのだが如何な物であろうか?

                 〜了〜
                      2015年2月21日記

※文中記載以外の参考資料
・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 1976 ベースボールマガジン
・我が旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純 1991 廣済堂出版
・The Champions and The Courses They Played(Terry Smith& オーストラリアゴルフユニオン) 2004


(この記事の著作権は全て松村信吾氏に所属します)

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2014年8月 7日 (木)

掘っくり返し屋のノート(10)「彼等はどうなったのか、第一回日本プロ出場の三人のその後」

Bu140728「彼等はどうなったのか、第一回日本プロ出場の三人のその後」

先年から第一回日本・東西三プロ選手の顛末やプレーヤー達のその後を書く為、調査と文の手直しを繰り返していたが、その途中雑誌「Golf Style」で第一回日本プロに関する事柄が発表され、更に日本プロゴルフ協会殿堂のHPコラムに大会の新聞記事がアップされるようになった。
後出しに関するご批判は承知しているが、このまま死蔵させるのもイヤなので、プレーオフの福井・宮本の各ホールのスコアと、余り知られていない越道・村上・関の三名の評伝と戦績を発表させて頂いた。補足として皆さんの参考になれば幸いである。

*プレーオフ各ホールのスコア(大阪毎日新聞1926年7月11日朝刊より)
宮本留吉
1st 434.444.434=34 454.464.335=38 Total 72
2nd 445.334.437=37 244.684.466=44 Total 81 153

福井覚治
1st 355.435.634=38 355.643.446=41 Total 79
2nd 454.343.544=37 444.763.545=44 Total 81 160


〜三人の評伝〜

越道政吉 1894頃〜没年不明
〜日本プロ以前〜
神戸GC キャディ出身、同クラブのキャディトーナメントに中上数一と共に名があり、青年期はハウスキャディをしていたようだが詳細不明。1920年に福井覚治がプロになったのを聞き、彼のアシスタントに。1922年に横屋GA跡地が甲南GCとして復活した際にヘッドプロとなる。
〜日本プロ以後〜
彼はこの後、1930年代前半まで国内〜関西のトッププロとして活躍しており、1930年には日本プロ選手権で二位Tに入っている。
プレーについては、スコットランド式のフックを打つ纏まったスタイルの持ち主で、図太いナーヴを持っていたという。
筆者は1937年11月15日の関西PGA月例会(アンダーハンディ)で優勝した記録までを確認している。この時の所属地も甲南GCである事から、翌38年の表六甲連山の山津波による壊滅からの移転及至戦争による閉鎖まの間まで在籍していたと見られる。
この以降については不明で、筆者が確認出来たのはJPGA30年史の安田幸吉・山本増二郎の座談会で、1946年の関東PGA再発足の際に集まったものの一人として名が挙がっている事、同士の物故会員の欄に名がある事の他、1954年に宮本・安田が南郷三郎を囲んだ座談会で(「Golf(報知新聞)」同年4月号)彼について、この時にはもう活動していないか、亡くなっている様な記述をしている程度であった。
所属 舞子CC(アシ)1920〜1922、甲南GC1922〜1937以降(1931年時無所属?)
戦績 日本OP4位-1920・30、日本プロ2位T-1930、 関西OP3位ー1926、 関西プロQuf1931〜32、 茨木招待4位−1928、 東西対抗戦西軍 1930〜33

村上伝二 1885〜没年不明
〜日本プロ以前〜
広島の銀行家の五男として生まれる。慶応大学〜社会人野球で活躍した後、大正初期にゴルフを始め、鳴尾GA第三期メンバーとして入会。海外のレッスン書の熟読、フォーム作りの為の3ヶ月の打ち込みによりクラブでもトップの腕前となり、1923年プロ転向(西村貫一の「日本のゴルフ史」より、しかし同年5月に行われた鳴尾GCのクラブ対抗戦の雑誌記事に、「村上なき後」と書かれている)、国内初のアマチュア出身・大卒プロとなる。
〜日本プロ以降〜
この大会後もトーナメントでプレーし続けるが、余り活躍出来なかった。
27年大会は優勝を意気込んでいたが、持病の痔疾で力が入れられず病欠。リベンジとなる28年度日本プロでは残り9Hで二位に立つが、11番でショットを松の木の傍に打ち込み、狙いに行った2打目を木に当てた所から大崩れをし、六位に終わったのが彼のキャリア最大のチャンスであった。
プレーの内容は確認出来た限り、一貫して82前後で廻る腕前で(30年代半ば頃で中の中位のレベル)、ナーヴが弱いとされたが理詰めの策士として知られ、東西対抗の代表や補欠にも選ばれている。
出場していた関西OP・プロの記録は史料不足(上位以外省略になっている史料多し)で、1930年代半ば以降のものを確認出来なかったが、月例会には1930年代後半も出場しており、戦前最後の記録は1942年古巣鳴尾GCで行われた月例会で1ラウンドだけプレーしたのを確認。
プロ仲間への・からの干渉を好まなかった為(信条であった)、プロ間では一匹狼的存在であったというが、アマチュアの間では海外の技術論も原文で理解している理論家の教え上手として、クラブ後輩の石角武夫と並んで有名な存在であり、友人の息子である古賀春之輔をプロにしている。
戦後も活動を続け、82歳時に元気で働いている事が雑誌「Golf(報知新聞)」1968年4月号で取り上げられている。

関一男   生没年不明
〜日本プロ以前〜
根岸の日本レース倶楽部GAのキャディ出身。父親が倶楽部の日本人マネージャー(グリーンキーパー、バーテンダーとも)であり、彼はクラブハウスで生まれたというからコースの出来た906年以降の生まれか。青年期に関東学院に通いながらキャディをしてゴルフを覚えていったが、英語が出来る事からプロになった。
〜日本プロ以降〜
彼は他のプロに比べて史料(と言うより記録)があまりにも少ない。プレーヤーとしては日本OP最初の参加者の一人でもあり、1929・30年も出場しているのだが、同大会は1930年の9位以外は第一ラウンドで大叩きをして予選落ち、日本プロは1929年に再出場したのみで、しかも足を痛め第二ラウンドで棄権している。プレーの写真は三枚しか見た事が無いが、カーヌスティ型のスイングをしていたようだ。
根岸には1929年まで働いており、1930年版「Golfer`s Hand Book」のNRCGAの欄にH・Sekiの名が載っている。この年に(兵役?)退職をした瀬戸島達夫の後釜として千葉の武蔵野CC(六実)へ。この頃、曜日を決めて帝大OBの社交倶楽部、学士会の同会館でレッスンをしていたと、彼からレッスンを受けた事がある農学博士・佐藤昌が著書「世界ゴルフコース発展史」に記している。
1930年以降は武蔵野を退職したのかトーナメントにも出ておらず、動向も不明である。
摂津茂和は「(新旧)日本ゴルフ60年史」で「英語の出来るインテリプロとして、村上や石角と並んで優美なフォームと共に広く知られた」と書き残している事から、1930年代初頭の関東を代表するレッスンプロとしてインドアや野外練習場で働いていたと推測される。
戦後の動向について宮本・安田は、1954年の座談会で彼について「生きているんじゃないかな(安田)」「全然見んがね(宮本)」と語っている事から、廃業した可能性がある。
所属 NRCGA 1926・7月以前〜1929、 武蔵野GC 1939年頃、学士会館にて出張レッスン
戦績  日本プロ3位ー1926、日本OP9位ー1930、茨木招待9位−1929

文中未記載の参考史料 
大阪毎日新聞1928年12月1日昼・夕刊
Golf Dom 1922〜1943年分
Golf(目黒書店)1931〜37、39〜40年分
Golfing(関西GU)1938年10月号(大阪GC50年史付録)
Golf(報知新聞)1954年4月号「ゴルフ鼎談 日本ゴルフの創生期」
Golf(報知新聞)1968年4月号「レッスン一筋に44年 82歳のプロ・村上伝二さん」
日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン 1977
ゴルフに生きる 安田幸吉 ヤスダゴルフ製作所 1991
ゴル不一筋 宮本留吉回顧録(新装版) ベースボールマガジン 1986 
佐藤昌が見た世界ゴルフコース発展史 佐藤昌 2001
ゴルフ日本のテクニック 浜伸吾編集 ベースボールマガジン 1986 
ゴルフその神秘な期限 井上純勝 三集出版 1992
日本プロゴルフ協会30年史 日本プロゴルフ協会 1987
シリュはJGA資料室、国立国会図書館、自宅蔵書より調査・閲覧



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2014年7月 5日 (土)

掘っくり返し屋の戯言 「皆が思うよりは...?」

Bu140627You-Tubeに、ヒッコリーゴルフについて、Stアンドルーズで復刻クラブを作っているStアンドルーズ・ゴルフ社を絡めたディスカバリーチャンネルの番組がアップされている(英語と日本語字幕の2種あり)。
番組内で工房内のクラブ製造の様子が挙げられて居るが、その中で興味深く思ったのが、ゴルフの発展はクラブよりもボールによる所が大きいとする見解を示す為に行われた、工房製の古式クラブを用いた年代別試打実験であった。

実験は室内ゴルフの設備を使い(画面はオールドコースの18番)、テスターが460ccチタンーグラファイトのドライバー、1920スタイルのブラッシー(ヒッコリー)、1880スタイルのセミロングノーズで同じ硬度の柔らかい現代ボールを打つ、と言う物なのだが面白い結果となった。
チタン(ティアップ)278yd、1920ブラッシー(ティなし)269yd、セミロングノーズ(ティなし)262ydと、現代と130年近く前のスタイルであるクラブとの差が十数ydしかなかったのだ。
方向性は、古くなるにつれてヘッドの大きさや幅が小さくなっている事による重心距離の変化からか、チタンがほぼストレートなのに対し、ブラッシーが11:45、セミロングノーズが11:30方向へのプルとなっている。

これを見て筆者が思ったのは、出場者全員が同一ボールを使う競技があればヒッコリー党が現代軍を叩きのめす事が出来るのでは? という淡い期待と、以前から考え、同論の方もいる(ロングノーズはなんとも言えないが)、あらゆる時代のクラブで、ちゃんと威力のある一定の球筋を打つ事のできるスイングが必ず有るという確信であった。

昔のクラブは距離が云々という言を目にされている方々には、どういうことだ? と思われるだろうが、それについてはボールの影響が大きく、過去から現在に至るまでに行われた現代・古式クラブの対比実験で(当時)最新のボールを使用した際の飛距離は、現代(当時含め)クラブとの距離の差が余り〜殆ど無いと言う結果が出ている。

1964年7月にアメリカの雑誌「Popular Mechanics」のアレンジで、アーノルド・パーマーがスチール・ヒッコリー両セットでフロリダのラ・ゴーシCCの9ホールをプレーする対比実験をした際、結果は現代のクラブが36ストローク、ヒッコリークラブが39ストロークであったが、八番ホール482ydパー5ではブラッシーで290ydのドライブ、ミッドアイアンでグリーン左へ持って行き、ニブリックでカップから6いnに着け見事なバーディー4を見せた記録が有る。
が、パーマー本人は、飛距離と最上のコントロールを求めている身として、愛用のクラブに比べヒッコリーには信用が置けないとのコメントを残している。
(E-bayに於ける実験使用クラブ出品の際の商品紹介及び掲載の雑誌記事より、2006年6月15日時確認、他Golf Journal1975年6月号より)

1972年には前年のアフリカOP勝者、サイモン・ホブズデイが正規のヒッコリーセットで9Hプレーをしたのだが、驚くべきことに飛距離が現代クラブと比べほんの少し落ちる程度であり、またアンティークパターの方がスチールシャフトの物よりも20ftのパットが安易であったとの報告が有る。

日本でも本格的な物は確認出来た中で「Choice」が1980年代に二回行っているが、85年1月号の企画が一番充実していた。
これは城村克身プロと久富章嗣氏らアマチュア三人がニッカースーツにネクタイと言う出で立ちで河口湖CC南コースでヒッコリーにガッティボール(フローター)を使い、9Hをプレーすると言う企画であった。
服装についてのスウィングの影響は、進行役の城村・久富の両氏は窮屈には感じないとしているが、プレーでは反発力が少なく軽いガッティでは、この二氏でも150〜170m(164〜186yd弱、当時はメートル表記な為、以下ヤード換算とする)のドライブがやっとで、スコアも城村プロの45がベストであった。
*近代のコースでガッティのプレーは流石に無理があったと言えるだろう。ガッティ時代のコースで今のパー72に相当するのは4500〜5300yd台で、6000ydを越えるコースはボギー80台が普通であった。

ガッティでの結果は芳しくなかったが、実験中余番563ydパー5で城村・久富両氏にヒッコリー・ガッティ、モダンクラブ・モダンボール、ヒッコリー・モダンボールを打ち比べると面白い結果が出た。
(クラブ・ボールの種類は上記の順)
城村プロが175yd・317yd強・281yd強、久富氏は186yd強・257yd・297yd強と、ヒッコリー・モダンボールでロングドライブを出しているのだ。
会場が富士山麓の高地に在る事や、久富氏のドライブの落下地点がダウンヒルでランが多めに出たとしても、ヒッコリーシャフトの優位性を示してくれているだろう。
(続く五番153yd弱パー3でもモダンボールで打ったところ、城山プロ(アイアンの)クリークでオーバー、久富氏はマッシーでカップ手前3メートルに着けている)

USGAも1994年に役員で1988年全米ミッドAm勝者David Eagerに、複製ロングノーズと1915ブラッシーで、フェザリーから1930年代までの様々なボール(複製)を打たせる実験を行っている。
当時のモダンボール、コンプレッション90のバラタと彼が当時使っているドライバー(メタル)の距離が242〜228ydに対し、同じボールをブラッシーで打った所228〜194yd、1920年代ボールの複製では、メッシュカバーの平均204ydと言う記録が残っている。

メタルのドライバーはヒッコリーの試打を終えてから打っているが、Eager曰く「古いクラブのスゥイングが、新しい物を使う手助けをしている」との事で、その為「ヒッコリークラブをトーナメント前のウォームアップに使うか?」という質問に対し、「方向性は良いが飛距離が短い」として笑顔で否定した。その一方この種のクラブでの感触の良さや風雅については多いに同調している。

現代の対比としては、海外のヒッコリーゴルファー達の「ドライバーが今の3番ウッドの距離」という説や、私の知っているヒッコリー使用者達が「アイアンクラブは同じロフトの現代の物と差異が無い」と語られているが、これらの意見はヒッコリークラブがマッチドセット時代の物でも、ロフト・レングスが現代の物よりウッドが1番手、アイアンが2〜2・5番手程下がる為であるが、私自身も使用者としてそう感じる。

ヒッコリーから少しずれてしまうが、近代パーシモンの距離についても、高反発ドライバー登場の頃かその規制が取り沙汰された頃であったか、読売新聞のスポーツ欄でヘッド素材ごとの反発係数と飛距離の差を取り上げていたのを覚えているが、パーシモンとチタンの差は10〜7yd前後と描かれていた様な..
(クラブ制作・研究家であった佐藤勳氏の1999年発行の著書には、公的機関の発表では差は2〜3%で、やく9ydの差と紹介されている)

また2010年の「Choice」(4〜5月号か)に「最後のパーシモンメーカー」と言われるルイヴィルゴルフの役員がパーシモンについて書いた広告で「98%のゴルファーがパーシモンの芯に当てたショットとチタンのショットの飛距離が変わらない」という話を挙げている。

この時代のクラブとなると国内雑誌でも1〜2年に一回くらい対比実験を行って十数〜二十数yd現代の物より落ちると報じているが、その際に「当時のスペックで」という訳なんだろう、当時のオリジナルの糸巻きボールを使用している。が、ボールの経年劣化による飛距離のロスを考えると、これでは正確な対比が出来ないのではないか?

これはここ数年の対比実験であるが、最近の「Choice」2014年春号に掲載された対比実験では、互いに当時のマッチングでのテストの他、お互いの時代のボールでも計測をしており、現代のクラブとボール、パーシモンと1990年代糸巻きボールの差は23yd程であったが、パーシモンで現代ボールを使い、スピンが抑えられ一番飛ぶと言われるトゥでのヒッティングでは9・6yd短いだけであった。(惜しむらくはチタン・糸巻きでのテストがトウヒットのみで、センターでは行われなかった事だ)

どの時代の物にせよ、純粋にクラブ同士の差を調べるのであるならば、冒頭のStアンドルーズ社の実験の様に同一のボールを使うべきであり、クラブもスペックをしっかりと表示しておく事(特にアイアン)。また、時代ごとのクラブとボールの組み合わせの差を探るのであればUSGAの実験のように復刻させたボールを使うか、当時の物と同じ反発係数のボールを使用すべきと考える。

と、冒頭の趣旨からズレ気味かつ、いろいろまとまりの無い事を書いたが、私を始め「変人」達の考える「クラブの進化は大々的に語られて程の物なのか、その比重は殆どボールが締めているのではないか?」について、冒頭・文末の結果や自分達で試し定説に疑問が出る結果が出ている以上、それらの証明にせよ否定にせよ、正否を引き出す為にはもっと沢山の事件結果が必要になってくる。

You-Tubeには海外の有象無象が行う対比実験(試打・マッチ)やヒッコリーゴルフの動画が2009年頃から多くUPされているが、国内でもゴルフ誌が(しがらみが色々と有るだろうけれども)更なる詳細な実験をやってくれないかしら?
それが望むべく物でないならば、草の根である我々が結果を集め、黙殺者や定説者達に突きつけるしかないだろうか。

妄言多謝
2014年4月5日

松村信吾

文中表記以外の参考史料
私のゴルフ図書館   佐藤勳  1999 Office アイ・サトウ(私家本)
Golf Journal(USGA)1975年6月号 「Hickory Hackers」 Joseph S.F.Murdoch
Golf journal(USGA)1994年1・2月合併号 「The Old Ways」David Earl
Choice 1985年1月号 「その昔ボギーが今のパーだった」(塩田正 構成)



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2014年6月 6日 (金)

知られざる来日プロ〜2 (掘っくり返し屋のノート〜9)(後編)

Bu1405284_2関西でのフードの活躍について、宮本留吉は回想録でカナダのプロと書いているが、彼は茨木GC設計の傍ら大阪市内で週1〜2でレッスンをしていた、と有る。
宮本はフードについて、大男だが動きが緩慢でボールも飛ばず、大したことのない腕前であったと書いているが(ただ、宮本自身もレッスンが下手だと言われていた)....これは宮本の負けん気を表すものか、フード自体が本当に大したことがなかったのか。

しかし、1924年に神戸GCでプレーをしている写真を見ると大きなフォロースルーのスイングで特に問題があるようには見えないし、何より関西プロゴルフに大きな影響を与えているのだ。
彼が甲南GCでレッスンをしていた際に、日本のプロの祖である福井覚治が大きな影響を受けた為である。
それまでは福井は見よう見まねでゴルフを始めた為、理論は西村貫一を始めとする原著の読めるアマチュア達から教わるしかなかったのだが、フードの存在は福井にとってプロ意識とショットメイキングを培う切っ掛けとなり、彼のレッスンが上手くなった、と『Golf Dom』編集長である伊藤長蔵は福井の追悼記事で書いている。
そして福井の下からは何人のものプロが巣立っており、彼等は関西の主要倶楽部のヘッドプロになって、更に新進を育てている。

フードは1925年8月11日に、来日したオーストラリアゴルフ史に残る名Amアイヴォ・ウィットン(1893〜1967、オーストラリアOP五勝)と茨木GCでエキシビションマッチを行っており、これが日本で行われた最初の海外プレーヤー達の競技であった。

関西滞在中、甲南GCを始め阪神間でレッスンを行い、日本ゴルフ界の底上げに一役買っていたフードなのだが、1923〜25年にかけて『来日したプロ』という表現で、日本人ゴルファーが彼を優遇や持て囃す等してスポイルしてしまう、という外国人ゴルファーからの批判が起きており、これとどう向き合うかとして『海外のようにプロだからという理由で卑しい職業の如く言うのは感心しない、西洋の風習を丸呑みするのは感心しない』という意見や、『ゴルフが始まって20年そこそこの日本では致し方ない、それよりもスキルアップを図るのを優先すべきだ』という意見が雑誌に書かれている。
興味深いのが1925年当時、彼のせいで、というより情に厚い(?)ゴルファー達が彼に余計な金を振りまいたことにより、それに会わせて関西のプロ達が影響されてレッスンフィが1ラウンドの同伴プレーで九円(現在の45000円位)、訪問レッスンでも1回十〜十五円(50000円から75000円くらい)と非常なインフレを起こしたという批判も起きている。
*幸いな事に、この問題は国内ゴルフ界の発展と共に薄れて行き、1930年代に入るとレッスンだいは時間五十〜三十銭、同伴ラウンドはトッププロでも二円弱までに落ち着いた。

彼が日本を離れた明確な時期は判らなかったが、『Golf Dom』1925年10月号巻末コラム『19Th Hole』に送別の文が掲載されている。
『茨木のコースを作ったプロのフードが我が国を去る日も近付いた。彼は北米の西海岸に渡って職を求めるとの事である。彼の滞在についてこうあって欲しい、ろ思う点も少なくなかった。が、その責任の一半は我々ゴルファー達が負うべきものではなかったで有ろうか。しかし総勘定をしてみて、フードが茨木のコースを残して去るのはそれだけでも我がゴルフ界への貢献であると思う。(現代語訳)』

彼が日本を去ってからの動向については米英の年鑑で調べているものの、亡くなるまで?ゴルフ年鑑に載っているトム・ニコルと違い、残念ながらフィリピンにおけるコースレコードの記録以外は、未だ確認出できていない。

   〜了〜
2014年4月4日

参考資料
1 日本ゴルフ協会七十年史  日本ゴルフ協会 1994  
2 日本のゴルフ史(復刻版)  西村貫一  友松堂
3 新日本ゴルフ60年史  摂津茂和  1977 ベースボールマガジン
4 茨木カンツリー倶楽部40年史 
5 Golf Dom   1922〜29年分
6 Nisbet`s Golf Year Book 1910.12年版
7 Golfer`s Hand Book   1922年版
8 The Australian Golfer`s Hand Book(第三版)  1964

1・3以外はJGA資料室にて閲覧


前後編の記事の著作権は、松村信吾氏に所属します。

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知られざる来日プロ〜2 (掘っくり返し屋のノート〜9)(前編)

Bu140528_2最初期の訪問プロ達の中で注目に値するのが、今回の主人公ダヴィッド・フード(David.Hood生没年不明)である。
彼の名のスペルはDavid.Hoodであるが、本によっては(特に新しいもの)ディヴィッド・フッドと書いてあるものも見受けられる。リアルタイムで彼と交流のあった人物はフード乃至フゥードと記しているので、今回はダヴィッド・フードで統一したいと思う。

先人が記し伝わる事、リアルタイムの史料を拾い集めて調べた所、彼はスコットランド出身のプロゴルファーで、兄もプロゴルファーであったと雑誌に書かれている。
ロングノーズ時代にマッスルバラのTomas.Hood(1843〜1909)というクラブ職人が居り、縁者ではと考えるが確証は得られていない。

フードは来日前マニラのカルカーンGCに所属しており、先に日本で働いたトム・ニコルから同地のゴルフ情勢を聞いて、1921年にニコル来日を斡旋した船津完一の世話で来日した、という事が戦後のゴルフ書籍に書かれているが、調べてみるとオセアニアに足跡が残っている事に気付いた。

1912年版『Ncibet`s Golf Year Book』にニュージーランド・クライストチャーチにあるHagleyGC(1900年開場当時9H3000y)のプロとしてDavid.Hoodの名が記され、更に1922年版『Golfer`s Hand Book(英国)』の『植民地のプロ』の項目にも同クラブ所属として名前が載っている。
他にも1906年度オーストラリアPGA二位のフレッド“F.G"・フードというプロが同時期ニュージーランドのAuckLandGCに所属していた他、1920〜50年代にかけて、オーストラリアのトーナメントでHood姓のプレーヤー(男女問わず)の優勝記録が残っている事から、彼等が家族でこの二国へ移住していたと見られる。
それを裏付ける話として、本人が『Golf Dom』記者に1921年10月シドニーでPoplewell某(オーストラリアOP二勝のフレッド・ポップルウェルの事だろう)と行った雨中のフォアサムで、ブラッシーショットをした際、クラブがすっぽ抜けて120〜130yd飛んで行った話を語った記事が同誌1922年12月号にある事から、彼は季節が逆となる南北半球を上手く利用して渡り鳥のようなプロ生活をしていたと見られる。

さて、フードは来日の打診を東京GCの井上信・大谷光明(共に日本Am勝者でゴルフ界の重鎮)へ行っており、当初は駒沢・程ヶ谷・根岸・新宿御苑などでレッスンをしており、Golf Domには彼の活動が度々報じられていた。
例えば程ヶ谷CCの九ホール開場コンペティションに特別出場して午後に37・37=74で廻り、最初のコースレコードを作っている話や、駒沢ではメンバー達とマッチをした際の出来事が1922〜23年の記事にあり、1924年のキャディトーナメントで同地のキャディ達がフードの影響を受けたスイングをしている事が書かれている。
関東の活動で特筆すべきは、宮内庁の要請により新宿御苑で行った宮内官達へのレッスンで、1922年中に4〜5回行っており、同年関西に移った頃にもレッスンに訪れているようだ。
彼はこの時に日本で初めて映画フィルムにプレー(スイング)が撮影されたプロになった様で、映像からダウンスイングにおける体重移動の欠点が判り、直したら30yd距離が伸びた、と『Golf Dom』記者に語った話や、ゴルフ書籍収集家で熱心なゴルファーであった西村貫一に『初めて自分がどんなスイングをしていたかを見た』と語った話が残されている。

上記のフードが1922年には関西に渡っていた事について、日本ゴルフ界の正史では彼が1923年7月に茨木CCの要請で大阪へ渡り、同倶楽部のコースを設計した事が書かれている。また、茨木CC年史にも1923年8月3日に委員が彼と大阪で会見した、とあり、更に翌24年1月12日に彼の滞在費用調達のため青木(甲南GCの所在地)でレッスン会を開いたとある。
これが彼の関西における最初の活動のように読める内容であるが、『Golf Dom 』1922年11月号に甲南GCと思しきコースで同誌編集長の伊藤長蔵が撮った、彼のマッシーとドライバーショットの三枚撮り写真があり、更に先述のクラブが彼方に飛んで行った話は記者(無記名だが伊藤と見られる)がフードのレッスンを甲南GCで受けた帰路のやり取りから書かれている。
その為正史の記述は、恐らく茨木CCに関わった最初の日時、と言うべきで、関西に初めて訪問した訳ではない、と訂正するべきではなかろうか?

因にフードは1922年末〜1923年春にかけてマニラに戻っており、1923年3月には古巣カルーカン(Caloocan、文中マニラGCとも書かれているが、そちらの住所はCaloocanであり、関連を調べている)で自身が出したパー68を亢進する67、66を出した事がマニラタイムスの記事となる。66はフィリピンOP勝者、ウォルター・Z・スミス(Am)とのプレーの際に成し遂げられ、両者の好プレーが大きく報じられた。(邦文記事『Golf Dom』同年4・5月号)。
恐らく、正史でフードが1923年に初めて関西に来たように書かれ低るのは、マニラに戻った事により、以前の行動がリセットされたと考えられたのか。

*なお、茨木CC(現東コース)の設計はフードとなっているが、敷地や建設費問題の難事により建設に時間が掛かり、9Hを残して彼の契約が切れ、残りは程ヶ谷CCから招聘のグリーンキーパー峰太刀造が苦心の末仕上げた。
その後も同倶楽部のグリーンコミッティであった加賀正太郎がコース監視直後からアリソン提出のプランに沿うよう幾度も改修をして整えており、初期の発展は二氏の奮闘によって成り立った。

(続く)

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2014年5月 5日 (月)

知られざる来日プロ〜1 (掘っくり返し屋のノート〜8)

Bu140423戦前日本を訪れたプロゴルファーで、当時のゴルフ界に影響を与えた人物というと、ウォルター・ヘーゲン(1930、38)やジーン・サラゼン(1937)が取り沙汰され易い、他には1930年に訪れた”ワイルド”ビル・メルホーンとボビー・クルックシャンクも挙げられるだろう。

1930年以前に日本を訪問した面々では、上海のグリーン某(1889〜1919)とジョージ・ノリス。東京GCが雇ったスミス某(?〜1919?)や後任のトム・ニコル(1879〜?)。(当時アマチュア復帰していたが程ヶ谷CC旧コースを設計したウォルター・フォーバーグ。長期滞在したダヴィッド・フードがい居る。彼等もなかなか興味深い話があり、日本のゴルフに影響を与えているのだが、今回はトム・ニコルについて書かせて頂いた。

彼は1878年にスコットランド、St,アンドルーズに生まれた本場育ちのプロであり、JGMミュージアムの説明書きには、有名なクリークメーカー、ジョージ・ニコル家の者か、と推測しているが詳細は不明。確認が取れる事は二十代の頃、少なくとも1900年代初頭にはアメリカに渡り、西海岸でプロ兼コース設計家として活動をしていた。
[The Architects of Golf]には1905年にバーリンガムCC、サンホセCC(1915)、メンロウCC(1916)、ロスアルトスCC(1923)等を設計している事が書かれている(後ろ二つの年次は別の書籍から、この箇所は「佐藤昌が見た世界のゴルフコース発展史」にも引用されている)。
私が確認出来た最古の記録は1916年版「American Annual Golf Guide(以下AAGG)」にサンホセCCのプロとして記載されているもので、この事からコースを設計すると共に契約していたようだ。次は1917年版「Spalding Golf Guide」に小さいが写真も載って紹介されている。
同年の「American Golfer」10月号で、有名なマクドナルド・スミスと入れ替わりでクラブを離れた記事が載っており、「The Architects of Golf」ではこの年にフィリピンのマニラに渡りコースを造ったと在る事から、それは所属地となったマニラGCのことであろうか?
叉、英国のゴルフ年鑑「Golfer's Hand Book」の人名録に、長年「アメリカ・中国・日本・マレーにコースを造った人」と書かれているが、中国、マレーシアには来日までの間に行ったのだろう。

ニコルと日本の最初のコンタクトは「新版日本ゴルフ60年史」によると1918年に神戸GCが求人を出した際に取っており、マニラが雨期の期間の契約の契約を持ちかけており、1920年5月1日の手紙ではレッスン料1時間四円で交渉していると有るが、契約は成立しなかったようだ。
日本にやって来たのは1920年8月で、これは東京GCの要請によるものであった。
東京GCにはその前年にスミス某という若い英国人プロを雇っていたのだが、彼はホームシックからアルコール依存症となり、業務に支障をきたした為、本国に送還されてしまっており(航海中、壇ノ浦で投身自殺をしたという)、クラブとしては会員のコーチやクラブ修理をしてくれるプロを渇望していたのである。

東京GCに置けるニコルはプレーヤーとしてスミスには及ばなかったが、素杯な好人物という人柄は会員達に愛され、後々まで「ニコルは良い奴だった」と評されるに至った。
彼は日本に来る際にクラブの修理製作用工具と素材を持ち込んでおり、時間があれば会員達のクラブの修理調整や、クラブ製作を良く行っていた。
その腕前はかなりの物だったというが、故郷のSt,アンドルーズには有名なロバート・フォーガン(新世界にプロを斡旋していた)を始めとするクラブメーカー・クリークメーカーが多数在ったので、おそらくそこで働いていたのだろう。

そんなニコルの作業を興味深く眺めていたのが、当時十五歳のキャディーマスター、安田幸吉であった。ニコルも安田少年が興味を持っているのに気付き、言葉は通じないがやってみるかと誘った。そこから安田に身振り手振りの付ききりでクラブ修理製造のノウハウを教え、日本を離れる時には工具の全てを彼に贈っている。
彼が安田にクラブ作りを教えた所から関東のクラブ製造の源流が始まったと言って良いだろう。事実、安田の下でアシスタント達や、研修に訪れたスポーツショップの店員が技術を学んでおり、また彼等の下からクラブメーカー達が育っているのだ。

ニコルの日本におけるもう一つの功績は軽井沢GC(現旧軽井沢GC)を設計した事だ。
クラブ発起人の一人田中実が日本のゴルフ界のパイオニア達による座談会で語っている所によると(「Golf Dom」1931年1月号「ゴルフ座談会の記(6)」)、彼を出張費時給5円・一日5〜6時間の計算で日給30円程として軽井沢まで連れて行くと、ニコルは1日半でレイアウトを済ましたという。
内訳は、半日土地の見回り(薮が酷かった)をした後、9本ずつの赤白の棹を刺してティとグリーンの位置を決め、後は発起人達で増設するというもので、一日半の働きに対し費用は百数十円で(内30円は藪漕ぎでボロボロになってしまった彼の洋服代)、田中曰く「これより安いレコードは恐らく無いでしょう」との事。
コースは翌年4月6H、23年9Hに拡張、七番パー5は674ydという特筆すべき長さから東洋一のパー5と謳われ、1928年8月に浅見緑蔵が3オン1パットのバーディーを出した時にギャラリー達が感嘆した程の難ホールであった。

数ヶ月の日本滞在の後、ニコルはフィリピンに戻ったのだが、1921年にはアメリカに帰国して居たようで、1922年版「AAGG]に再びサンホセCCの欄にプロとして名前が載っている。(書き写しノートより)

その後の記録としては1930年版「Golfer's Hand Book」の人名録で所属地(宛先)が同じカリフォルニアのロスアルトスccとなっている。
コースを設計したのは彼であり、1928年版「AAGG」(プロの名の綴りがThomas Nichollsに成っているが...30〜31年版ではTom Nicoll)には1923年開場で在る事を考えると開場前後から所属していたと見てよいだろう。
サンホセに戻った時だろうか、ロスアルトスに移った頃だろうか、ニコルは「Golf Dom」社長の伊藤長蔵にプロ・グリーンキーパー問わず、給料が不十分でも、コース脇でジャガイモでも育てて日本で暢気に暮らしたい...と再来日が可能か、仕事場を求める手紙を送っている。
これは叶わず、サンホセで長年働く事になるが、1931年末、クラブ作りを教えた安田幸吉が渡米選手団の一員として西海岸のトーナメントに参加した際、ニコルは彼に面会し旧交を温めた。

その後のニコルについては1946年にロスアルトスの改修を行った事と、毎年ゴルフ年鑑に名が載るくらいしか記録が無いが、高齢になっても倶楽部プロの仕事をしている事から慕われていたのだろう。
1956年版まで宛先に同倶楽部が使われているが、57年版から同じ市内の自宅と思われる住所に変わっており、1960年版で名前が消え、JGA、ミュージアムの説明書きの生没年には1959年に81歳に亡くなっている事が書かれている。




2014年4月3日


Golf Dom 1931年合本  
ゴルフに生きる(平成3年版)  安田幸吉 1991  ヤスダゴルフ
新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 1977 ベースボールマガジン
American Annual Golf Guid 1916、23、28、30ー31年版
Golfer's Hand Book 1936〜37、40、50、55〜60年版
Spalding Golf Guid    1917年版
The Architects of Golf Geoffry S. Cornish Ronald E. Whitten 1993(第二版)

JGA資料室、USGA museum HP デジタルライブラリーにて閲覧


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2014年4月 2日 (水)

名手聖人にあらず? (掘っくり返し屋のノート−7)

Bu140318ハリー・ヴァードンというと、ゴルフ史に永遠に名の残るプレーヤーであろう。
未だに破られない全英OP六勝に全米OP一勝を始めとする素晴らしい戦績。真円のスウイングから繰り出される正確な球筋は数多くの伝説を作り、彼が採用したオーヴァーラップグリップにはヴァードングリップの名が冠せられ、1937年の没後彼を称え指向されたUSPGAツアーに於ける最小平均スコアに贈られるヴァードントロフィ(英国PGAでは賞金王に贈られていた)等々数々の逸話が残っている。

そんな彼に対して余り良くない話というのが、戦前の日本に伝わっていた。
私がそれに最初に触れたのは、JGA資料室に通うようになってから2回目から4回目の頃であったか。
雑誌「Golf Dom」1925年12月号で、この年英国・アメリカを訪問した大谷光明がK,J,Oのイニシャルで書いた「渡英土産三つ」の、彼が聞いた英国プロの勤務事情と動向についての評伝に、クラブプロとして良いのは大谷達が一緒に廻ったJ・H・テイラー、次にこれも一緒になったエイブ・ミッチェル。そしてテッド・レイ、ジェームズ・ブレード、アーサー・ヘイヴァース等とする一方、「ヴァードンは物が下等で、ジョージ・ダンカンは生意気だ」との評判を聞いた、と書かれているのを目にしたのである。
私は全英OPや英国PGA勝者達の実態と、ヴァードンへの非難といいう事から興味深く思っていたが、それから1〜2年後であったか、もう少し後であったか、別の雑誌でヴァードンに関する可也の批判をしている邦文記事を目にする事になる。

それは「Golf(目黒書店)」1934年2月号掲載の「プロフェッショナル諸君へ」という、先の大谷光明が関東ゴルフ連盟の前身である日本ゴルファース倶楽部で、プロ達への身の振り方について講演した内容に加筆した物で、三巨人つまりヴァードン、テイラー、ブレードの現状をを例にして語っているが、それを読んで行くと...

テーラーは所属地ロイヤル・ミッドサリーGCの名誉会員に推薦された事、ブレードは所属地ウォルトンヒースGCのクラブハウスに肖像画が掲げられており(当時彼の他掲げられているのは全英Am二勝のアーネスト・ホルダー卿のみ)、両者が受けた事は当時の英国ゴルフ界ではプロ達にとって最大級の名誉であり、これは戦績のみならず彼等の忠実な勤務態度や人格等が鑑みられての事だ。
と紹介するのだが、大谷はこう続ける。
一方ヴァードンには現役時代から渡り歩いた所属倶楽部は三流処で、現在在籍しているサウスハーツGCも(当時は)あまり知られていない。その上前者二人のように厚遇されている訳ではない、と。
戦績等々優れており、知らない人は居ないと言うプレーヤーなのに何故か? と語り、ここで理由・要因として我々日本のゴルフ界と関わる話が出てくる。

1921年、当時皇太子であった昭和天皇が訪英された際に、随行の侍従長や在英大使の申請で、高畑誠一を始めとする在英邦人達が英国の名手達のエキシビションをお膳立てして、上覧頂いたのは日本のゴルフ史について読まれている方ならご存知だろう。
大谷によると、当時彼等は三巨人に打診をしたのだが、その際テーラー、ブレードは名誉の至りとして快諾したのに対し、ヴァードンは「高貴な方御なりと見て、不当千万の多額の謝礼を要求し、容れらずんば出席し難し」と返事をした為、委員は憤慨し「かくの如き代物である」彼を外してテーラー・ブレード対ダンカン・ミッチェルのマッチを台欄奉ったと言う。(実際にはテイラーは出場せず、会場のアディントンGCのプロ、ジャック・ロスが加わっている)

この話と共に、邦人ゴルファーがテイラーに殿下に献上するクラブを注文した際に、彼は最高の名誉として費用は要らないので自身で献上させて頂きたいと申し出た話(テイラーの所属地ロイヤル・ミッドサリーGCのクラブ史には殿下がテイラーのレッスンを受けに何度か訪れた話を載せているというが、これはその裏付けとなる事か、或はこれが”その事”に当たるのか)を挙げ、テイラーの謙虚さと「かくの如き代物」ヴァードンの貪欲を比較して品行・人格に於いて雲泥の差があり... 一方が名誉会員、一方は敗残者足らしめた唯一無二の原因である、とした。
時代の寵児であったリンドバーグやボビー・ジョーンズ等が人望を持ち、謙譲で身を持するに慎重であった事や、ナポレオンの凋落と彼がSt,ヘレナ島で虚栄を保とうとした話を挙げ、若い国内プロ達に謙虚に振る舞い、人格の注意を諭す内容で〆ている。
この話についてはおそらく大谷が訪英時にプレー等行動を共にした高畑誠一から聞いたのだろう。

確かにヴァードンについては堅実に生涯を送ったテイラーやブレードと比べて、隠し子が居るなどスキャンダルがあったのは事実である。(彼、ピーター・ハウウェルの妻オードリーがヴァードンの詳細な伝記を書いているが私は未だに購入出来ず)
と言っても、色々と何かあるのは彼だけではなく、かのボビー・ジョーンズからタイガー・ウッズに至るまで、お金にがめつい・不適切な言動・素行問題・スキャンダル等々「名手成聖人にあらず」と言う話は枚挙に暇が無い。

話を戻し私が思うのは、本当にヴァードンが浅ましい態度を取った為に邦人ゴルファー達が酷く失望してこの様に書いたのだろうか。単にビジネスライクであったのを過剰反応したのではなかろうか?と言う疑問である。
というのもヴァードンはプロがアマチュアのサーヴァントと言う見方がされていた当時の英国ゴルフ界で一財産を成した希有な存在であり、価値観の違う国の様子もつぶさに見て来たからである。
彼は1900年に始まり、1913.20年(15年も遠征予定だったが、予約していた客船が撃沈され断念)と、三度のアメリカ遠征をしている。
その際にヴァードンはアメリカの方がプロに対する扱いが優しい・スターのように見ているのに対して、英国は見方を変えればプロ達に冷淡と感じていたのかも知れない。
事実、「プロの地位や賃金の低さが向上心の低下を招き、良いプレーヤーや新技術が出ない悪循環に陥っている」と、30年代前半にも英国ゴルフ界の問題として報告されている。

その中で自分の名を(用品広告以上に)有効活用しようという思いが、当時の英国では異端者扱いされ(特にそう言った存在には容赦がなかった)、邦人ゴルファー達の中にただビジネスとしてのギャラを求めたヴァードンを「たかがプロゴルファー(肉体労働者程度の意味で)風情が自分からギャラを要求するとは」と言う風に見下していた面があったのではなかろうか。

また邦人ゴルファーの殆どが英国でゴルフを覚えた人達で、英国流の考えが身に染み付いていただろうし(日本国内では福井覚治が舞子GCのプロになったばかりで、越道政吉が彼のアシスタントをしていた頃だ)、更に皇室に関わる事でもあった為、ヴァードンの申し出が現代と比べ物にならないくらい皇室への敬意が強かった時代の人間である彼等の逆鱗に触れたのだろう。

また、1925年当時英国で「生意気だ」と言われたジョージ・ダンカンに対しても、彼はヴァードンと同じくアメリカを何度も訪れて自国のと違いを見ており、プロ達の権利を主張する事を覚え実行していたに過ぎないのではないだろうか。(実例として1920年度フレンチOPで、プロ用施設のあまりの劣悪さにウォルター・ヘーゲン、エイブ・ミッチェルと共に待遇改善されねば出場をボイコットする、と抗議をしている)
もう一世代進んでプロの権利主張と地位向上を明確に行っていたヘンリー・コットンでさえも、華々しい生活スタイルが英国のプロとAmの関係に背いていると見なされ、全英OPに初優勝した時でも主張の点から「ワガママ者め」と、プロAm問わず嫌っている者が多く居た、と言う報告が在英邦人の寄稿文に載っている。

こう言った事を鑑みて私は、これは「権利の主張が当時のゴルフ界にそぐわなかったが為に起きた事」.「ヴァードンのやり方がよっぽど嫌らしかった」を、前者6割半・後者3割半で考えている。

かの偉大なゴルファーに対する礼賛ではなく、批判と言う話が珍しかった為にずっと印象に残っている事柄であり、また1920年代の英国に於けるプロゴルファーの地位に対する好サンプルでもあると思うのだが、皆さんはどう感じられるか。

〜了〜

2014年 2月24日


参考史料

Golf Dom 1925年12月号 「渡英土産三つ、 K,J,O(大谷光明)記」
Golf    1934年 2月号  「プロフェッショナル諸君へ 大谷光明記」
Golf   1934年 2月号   「最近の英国ゴルフ界を語るー日本との比較に於いて 金野豊記」
Golf   1934年 4月号  「英国のホープ ヘンリー・コットンの印象  金野豊記」
新日本ゴルフ 60年史  1977 ベースボールマガジン
摂津茂和コレクション3 「ゴルフ史話」 1991 ベースボールマガジン
日本ゴルフ全集7人物評伝  井上勝純  1991 三集出版
日本ゴルフ協会七十年史  1994 日本ゴルフ協会
人間グリーン4 1978 風光社
The Greatest Game Ever Played   Mark Frost 2002


(この記事の著作権は、全て松村信吾氏に所属します)

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2014年3月 1日 (土)

戦前関西OP最年少優勝者について(掘っくり返し屋のノート−6

Bu140220ゴルフ史の調査をすると、従来の定説を覆す様な記録を当時の文献から見つける事が出来る。
先達の方々が見つけきれず、不明とされるなどした”それ”を掘り返す事が半ば趣味と化している私は、JGA資料室に通うようになった八年間(今までの書き物で参考資料として紹介した書籍の大半は同協会の蔵書である)の間にいくつかの新事実や、もしかしたら...という事柄に出会っているが、今回は日本のプロトーナメント史にまつわる話を上げてみよう。


戦前のプロトーナメントにおける最年少優勝記録は、これまで1933年度関西OP(5/21茨木C
C)における戸田藤一郎とされている。
彼は1914年1月22日生まれのため、優勝時は18歳181日で、1928年度日本OP(5/26〜27,東京GC)に19歳280日で優勝した浅見緑蔵(1908.8/20〜1984.6/19)の記録を抜いた、と最近のゴルフ雑誌にも書かれている。
(戸田は関西OPに二回目の挑戦で優勝しており、初参加の1932年大会は13位であった。
これまで32年大会は詳細不明とされていたので(「Golf Dom」1932年7月号に全選手のスコアが有るのだが)、初参加で優勝と書かれる事があった)

しかし、戸田の記録よりも若いチャンピオンが生まれていた様なのだ。
その人物の名は森岡二郎、この件に疑問を持ったのは別件で彼に興味を持った為であった。

戦前の国内プロゴルファーと言うと、今では1935年度渡米選手団の六名を除くとプロの祖.福井覚治や、戦後に活躍した者を含めごく少数しか語られなくなってしまったが、この森岡は鳴尾GCのプロとして、1928年にトーナメントデビューした。
それから大戦による関西PGA解散までの15年の間に、関西OP四勝,同プロ一勝、日本プロランナーUP二回,東西プロ対抗戦代表十回(第一回〜戦前最後まで連続)、1935年渡米選手団予備選手という記録を残し、戸田藤一郎・宮本留吉・村木章とともに関西を代表し、かつ大戦で戦死した事が惜しまれたプロの一人であった。

私が彼に興味を持ったのは、彼が最初に関西OPに優勝した1929年の記事と、関西プロ優勝時の記事に載っていたスウィングの見事さからであった。
これは当時の競技記録を集めていた中で見つけたのだが、当時のプロ達のフォームがボビー・ジョーンズで知られるカーヌスティ型の様な、フラットでフック打ちのスコットランド式スウィングが一般的な中、「鉄男」と呼ばれた森岡の上背のあるアップライトなスウィングは、宮本留吉によると全米OP・マスターズ勝者のクレイグ・ウッドによく似ていたといい、ロングヒッターかつアプローチとパッティングの名手であった。
彼のスウィングは教え上手のセオリストとして知られた、アマチュア出身の先輩(ボス)村上伝二・石角武夫たちから新技術を教わっていたのだろうか。
それはさておき、彼のインパクトやフォロースルーの写真を見て”良いフォームだな”と感じながら1929年度関西OPの記事を読んでいた時、「彼は確かこの大会に18歳そこそこで優勝していたのでは?」と、以前読んだ本の内容から思うに至った。

その本は、1938年に当時最大のゴルフ雑誌社「Golf Dom」が発行した「ゴルフ叢書6 ゴルフ問答読本」という当時のトップ〜教え上手のプロ達が銘々、技術論から練習・用具等プレーに関する様々な問いに対して回答する様式のレッスン書で、森岡もこの回答に参加している。
この本には色々と興味深い事が書かれているが、当時の私は巻末に記された参加プロの生年月日と戦績を重宝していた。
と言うのも、戦前のプロ達のプロフィールは中々残っておらず、生没年すら判らない人たちがかなり居る為、こう言った所から収集するしかないのである。

そこに、件の森岡の生年月日が明治44年と書かれていた事を思い出し、再度書架から取り出して開くと「森岡二郎、明治44年(1911)4月28日生」とある。
そしてここから彼が最初に関西OPに優勝した日時1929年5月17日までを計算すると、記載の年月が間違っていなければこの時森岡は18歳19日で、あの戸田の記録よりも160日以上若い。
(因に本大会は5月16日に36Hのメダルプレーで行われ、78・78=156で廻った森岡に宮本留吉が追いつき、翌17日にプレーオフ(18H)となった。
プレーオフは、双方大ミスとその挽回で取ったり取られたりをしながら前半は38でハーヴ、インの12〜14番で宮本の崩れに乗じて四打のリードを取り、更に最終ホールで一打を加え、77対82と五打差で勝利を収めた。)

ただ、この記述が本当に正しいかどうか、私にもこの件をお伺いした大会を管轄されている関西ゴルフ連盟にも判らないのだ。
私は先のレッスン書しかハッキリした物を見ていないし、連盟側も生年月日を確認出来る資料が無いと言う(返信後プロフィールのコピーを送らせて頂いたが)

更に別の方から、昔はよくあったと言う、生まれて暫くしてから出生届を出すという例を指摘され、何か見落としをしているのでは、と不安を呼び起こしてしまう中、1929年の記事には「森岡はまだ19歳」と有り、その前年二位になった茨木CC招待(1928・12/1〜2)の記事でも18歳と書かれているではないか...

嗚呼、私の考え違いなのか...と思いもしたが、当時は数え年が一般的であり、「Gof Dom」1934年1月号で浅見緑蔵が東西のプロについて語った記事で、彼は年齢を数えで語っているし、他の"歳の判っている”ゴルファー達の年齢が書かれた記事もやはり”それ”で表記されている。

更にこれは戦後の話だが、1956年に鳴尾で行われた関西プロで森岡の長男、比佐志氏が18歳8ヶ月の若年で決勝まで進んだ際、ギャラリー達が彼の亡父二郎が18歳で関西OPを獲った事を引き合いに「彼も父親と同じ喜びを得る事が出来るのか」と言葉を交わしていた事が、雑誌「Golf(報知新聞)」1956年10月号に書かれているので、1929年の記事に書かれた19歳は、やはり数え年での表記と見ても良いと思う。

そして先述の「ゴルフ叢書6」にある森岡の生年月日が正しいと仮定して(日時にずれがあっても1911年生まれなら戸田の記録より速いママ)、なぜ戸田の記録が通説と成ってしまったのか?
考えられるのは、日数を数えずにただ18歳で優勝と書いた為、記録がゴッチャとなり、その後ライター達によって戸田の記録(生年月日もはっきり伝わっているので)のみが拾い上げられた為ではないだろうか。

戸田は渡米選手の一人であり、戦前のゴルフ界を代表するプロで、ランク付けをすれば間違いなく特急に当たるだろう。
森岡も一級に挙げられるが、戦没した事から目立たず(プロゴルフ協会の年史以外で彼の戦死について触れた本”雑誌では有るが”を見た事が無い!!!!)、更に過去のプレーヤーやゴルフ界に対して国内のゴルフジャーナリズムが触れる事が少なく、(特に近年)正当に評価されていない。
その為、戸田の記録ばかり取り上げられ広まっていったのだろう。

石川遼が国内プロトーナメント最年少優勝記録を造った今日、私が感じた疑問は答えが解ったとしても、もはや一般的には用を成さないかも知れない。
しかし、ゴルフ史編纂において彼の記録を明確にするのは重要であると私は信じている。

        〜了〜

2013・4月記  同年10月13日改訂

参考資料
ゴルフドム1928年〜1943年合本       (月刊誌 編集長 伊藤長蔵)
Golf 1931〜1938,40年分        (月刊誌 目黒書店発行)
Golf 1956年10月号             (月刊誌 報知新聞発行)
日本ゴルフ協会七十年史 1994         日本ゴルフ協会
ゴルフ叢書6 ゴルフ問答読本           草葉丘人(伊藤長蔵)日本ゴルフドム1938
日本プロゴルフ協会30年史  1987  日本プロゴルフ協会
日本プロゴルフ協会50年史  2007  日本プロゴルフ協会
関西ゴルフ連盟40年史(競技記録)
  以上JGA資料室にて閲覧
右手 鬼才戸田藤一郎の生涯    早瀬利之
 

(この記事の著作権は全て松村信吾氏に所属します)

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2014年1月 4日 (土)

松村信吾(博士)の調べた事

Bu1312231Bu1312232   (今回はどなたかの資料になるやも知れぬ事柄なので、松村信吾氏の描いた図とともに発表しておきます。) 


【戦前発売された国産クラブ・モデル名一覧】

・N.G.M(日本ゴルフ用具製作所)
   Chick Chin(陳清水)      1937頃
   ボビー・ジョーンズモデル    1934頃
   セミリンバーシャフトクラブ   1935頃
   バンブーシャフトクラブ     1931~3    
   ダブルリマインダーグリップ
N.G.Mモデル         1934他多数

・グリーン商会
   グリーンCo.スペシャル (ウッド) 1935頃
   ロイヤルクラウン(ウッド・アイアン) 1934~
   ゴールドクラウン(ウッド・アイアン) 1934~
   シルバークラウン(ウッド)       1934~
   クラウン印   (ウッド・アイアン)
   ラリー・モンテス監修モデル在り ロイヤルクラウン

・イシイカジヤマ
   ステデイ     (ウッド・アイアン) 1939頃
   エクセレント   (ウッド・アイアン) 1939頃

・ブリリアント商会 
   ブリリアントスタークラブ(ウッド・アイアン)

・新田商店
   オリジナルウッド     1935~
   ビアストレスアイアン   1935
   バーディー  (ウッド・アイアン) 1937頃
   バーディー? (ウッド・アイアン) 
   国産ニック・ジョーンズモデル アイアン 1934

・赤木商店
   レッドウッド
   ゴールデンキャッスル     1931~
   ブルーイーグル  
   フライトマスター       1931~
   国産エスピノーザアイアン   1935~40?

・マツダ
   オリジナルウッド
   バランスフィーリングアイアン 
   1934年当時、5・00円からクラブ有り

・ミズノ
   トーナメント     (ウッド・アイアン)
   センターバランス   (ウッド・アイアン)  1937
   オールニッポン    (ウッド・アイアン)
   ハイパワー      (ウッド・アイアン)  1939
   チャンピオンシップ  (ウッド・アイアン)
   ジーン・サラゼン   (ウッド・アイアン)  1939~40
   トム・ミヤモト     ?

・有賀商店(旧臨海ゴルフ練習場)H&A
   臨海
   グリーンフォーカス   
   スウィートショット
   ヤーズモア
   スタンダード

・津田ゴルフ店
   大日本印ウッド
   富士印アイアン(広野製作所?)

・福井(覚治)商店 (神戸、青木)

・佐藤満商店 (神戸)

・田中(光義) (東京銀座)

・鶴田ゴルフ研究所 (福岡)

・安田幸吉 (東京GC、バーディークラブ、安田ゴルフ)

・宮本留吉 (茨木CC、フェアウェイ、宮本ゴルフ)

・中上数一 (保土ヶ谷、京都、霞ヶ関、クラブメーカー)

・浅見緑蔵 (保土ヶ谷CC、バーディークラブ)

・小池国喜代 (霞ヶ関CC)

・中村兼吉 (藤澤CC、星が浦(大連)GC)

・柏木健一 (舞子CC、広野GC)

・陳清水 (武蔵野CC、川奈GL、陳ゴルフ)

・広野製作所 (兵庫三木、ステンレス&スチール)

・島田ゴルフ (埼玉、大宮、スチールシャフト)

・香里スチールシャフト (大阪、香里)

参考資料


Golf Dom 1930年~42年分合本
Golf 1930.12~1938.40分合本
全国ゴルフ場案内 1937・38年分
ゴルフ用品業界総覧 1994ユニバーサルゴルフ

   
【戦前の国産ボールのモデル一覧】
1・日本ダンロップ 
    ダンロップボール (無記銘)      1930?~38
    ダンロップ グリーンフラッシュ     1937~38
   (無記銘はディンプルとメッシュカバー)

2・大日本ゴルフボール製作所
    エバーグリーン             1936~38
    エバーグリーン パー(アベレージ向け) 
    エバーグリーン シルバーライナー    1937~38
    (ハードヒッター向け)
    エバーグリーン トライアンフ      1938~39

3・日本ゴルフボールマニュファクトリー
    シルバーサン              1934頃 
     (大日本ゴルフボールの前身かは判らず)

4・ブリジストン
    ブリジストン スタンダード       1936~
    ブリジストン スーパー         1936~

5・日本精工 
    ハイピーク               1934
    シルバーサン              1934
    スペシャル               1934~35
    フジ(メッシュカバー)         1934~37
    ビクトリー               1935  
    (1935年 ノーペインティングボール完成)

6・日三商会(ファーイースト・ラバーCo.)
    ファーイースト (ディンプルカバー)  1934~38
    ファーイースト、A 1938頃
    ファーイースト、A.one         1938頃
    ツバサ                 1935  

7・東京製球合資会社(谷兄弟、東京ボール製作所)
    サンタニー               1936~38 戦後
    ツバサ                 1936 
    バーディー(新田商店の為に制作?)

8・ミズノ
    ワンオン                1934
    ワンオン プラス            1935

9・東洋ゴルフ(ゴルフクラブ販売店)
    スカイライン  (ダース ¥10.00) 1937
    ファルコン   (ダース ¥6.00)  1937~38
    アロー     (ダース ¥6.00)  1937
    ノーマーク   (ダース ¥3.50)  1937
    (その他にも注文に応じるとの事...コース用、練習用)

10・臨海ゴルフ練習場(後 有賀ゴルフ)
    スターゴルフボール(ダース ¥6.00) 1934頃
    (練習場用ボール自社製造から販売)

11・G.U(上田軍一)ゴルフボールCo.
   パートナー                1936
    (銀座のインドア練習場から)

12・ゴールデンアローボール
     ゴールデンアロー             1937~38

13・近藤ゴルフ商会(ゴルフショップ)
     ASAHI(アサヒ)(ダース ¥18.00) 1942
      (リメイドボール?)

ーリメイドボール加工店ー
  N.G.M(日本ゴルフ用具製作場)         1937前後
  幸村商店 ゴルフボール部
  Single(シングル)               1941頃
 (他に、大日本ゴルフボール、日三、ダンロップなどがボール製造規制時に行っていた)

参考資料 
Golf Dom 1932,1942年分
 ゴルフ 目黒書店 1934~37,39~40年分


(この回のブログの著作権は全て松村信吾氏に所属します)

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2013年6月25日 (火)

直ぐに出来るゴルフコレクティブル  1

Bu130625ゴルフコレクティブルというと皆さんはどういった物を思い浮かべられるであろうか?
立ち寄り難いジャンルと思われるやも知れない。
海外の話を見聞きすると、ロングノーズや手鍛冶アイアン等の木製シャフトのクラブに、豪華な装丁の古書や調度品に大変な額のお金や保管スペースを掛ける人達の例が出てくる。
我が国にもそういった、及びそれに準ずる方々が居られるし、皆さんご存知のブログにて集めた1940〜60年代のクラブを紹介されている、旧来の日本的コレクターとは一線を画している方々が居られるのを忘れてはならない。

と言っても大半の方は自分には縁が薄いと感じられるやも知れないし、あるいはやってみたいけれども取っ掛かりが見付からない、お金や知識(これは重要だ)スペース等の不安を感じていることだろう。
これらの方々に私に実体験から、3000〜5000円の元手と休日等にあちこちを歩き回る根気があれば、目に見えた形での成果を挙げることの出来る分野を書いてみよう。

それはボールの収集である。
ボールと言っても数万〜数百万の値が付く様なフェザリーやガッティ、初期のラバーコア(糸巻き)などではなく、1970〜90年代の糸巻きボール達だ。
私がこれを始めるきっかけとなったのは、収集の為ではなくプレーで入り用となった為であった。
2009年にヒッコリーゴルフを行うことに成り、クラブに優しい糸巻き、それもバラタカバーのボールが必要になったのだが、新品の物がおいてある地クラブ屋さんでは値がそのままで少ししか買えず、クラブ屋さんが「ここで買うよりもロストボールのパックから探してごらん」とアドヴァイスをしてくれる程であった。
このアドヴァイスは本当に有り難かった。
それならばリサイクルショップにまとまった数が在るのでは、と大手チェーンから個人経営の店を廻った所、二番目?のお店で糸巻きボールがクリアケースに一杯、10個50円で売りに出されていたのだ。
これ幸いと二回に分けてスリーブ箱を含め6ダース(打)程購入した所、様々な種類のボールがあったことから集めるのが愉しくなり、(いくつかを使いロストしたが)以降ボールを求めリサイクルショップを廻る様に成った。

最初の半年で使用分を除き1グロス程を集め、安いボールが見付からず一年程の中断を経て現在は非使用球が2グロス1〜2打程、バラからダース箱まで様々在る。
これらのコレクションの数量トップ2はダンロップとブリジストンで、前者が1グロス1〜2打、後者が6打程在り、4種のダンロップ65、10種のマックスフライ(サイズ、コンプレッション多数)にレクスター5〜6種とイーグル2種が量のほとんどで、残りの5打強に28種、有象無象のブランドが集まっている。

名前を挙げるとケネス・スミス、ベンセイヤース、タイトリストツアーバラタ、ガッティ+10、ダンロップオーガスタ、ブリジストンJSジャンボ、トップフライとバードオンボール等々...使ったことが有るぞ、いやこれは未見だと感じられる方々が居られるだろう。
貴重な物はあまり無いと思うが、珍しいと感じているのが黒フィルムに包まれたダンロップ65と、箱にサンプル品と記された青字の同モデル、英国製の六角ディンプル球、ユニロイヤルPLUS6のフィルム入り、ブリジストンが練習用として袋詰めして販売したレクスター半ダース(未開封)、青数字にpro-parと有るメーカー不明球、そして様々な企業やコース等のロゴが入ったボール達であろうか。

このネーム.ロゴ入りボールも収集に適している。
この種のボールは現在でも製造されているので糸巻きよりも入手しやすいかもしれない。
分類は企業、コースのノベルティ品、大会等の記念品とプロ使用ボールが有る。
ボールのプリントも活字、エンブレム、社標、商標とバリエーションが有り、箱にプリントがなされている物も有るのでチェックをして見るのも良いだろう。

さて、ボールを集める為の考察に移るとしよう。
購入先としてはリサイクルショップが一番手頃であるが、大手チェーンと個人経営・マイナー店では開きが有る。
大手店の場合では個人の所有品の他に地クラブ屋さんが閉店の際に売却したのでは、と思える量が出てくるが(店舗や時期によってばらつきは有るが)他よりは安定しており、ほとんどが新古品だ。
値段は1スリーブで105〜525円で、大抵は210〜315円だが店晒しが続いた場合105円を切ることもあった。
ただダース箱で売っている事が少なく、バラしてスリーブごとにしている感が在る、またバラ売りは一度しか見た事が無く(40円程)半ダースにまとめて袋詰めにされている事が多い。

一方個人経営・マイナー店の場合は在庫が有る場合にはかなりの量を手にする事が出来るが、ムラは先記の店よりもずっと大きい。
売っている種類はバラ・スリーブ・ダース箱に新古、キズものと様々で、値段にも波が在る。
実体験で書くと、ダース箱780〜2800円(高い方は買ってない)、スリーブ箱30〜280円、バラ10〜20円の他に先の10個50円やケースに詰め込んであって1000円というのもあった。

思うに安値でボールを手にするならば後者だが、安定した入手先としては前者が一番と思う。
と言ってもリサイクル品なので売っている人達に左右されるため、買いに行く店は一軒に留まらず、何軒も根気よく訪ね回るのが重要だ。
上手くいけば大手チェーンを数件廻って糸巻きボールを有る程度入手出来るはずだし、個人経営の所には思わぬ掘り出し物が眠っている事だってあるのだ。
最初は無駄足に終わる事も有るだろうが、一度集まりだしたら探し廻る事も愉しく成って来るハズだ。

このやり方はゴルフ収集としてだけではなく、プレーをする為の糸巻きボールを集めるのにも適していると思う。
少なくともネットオークションで悩むよりも実際に手に取って品質を確かめられるし、新古品も多い上に安上がりなのでボールの残高にお困りのパーシモン・ヒッコリー党の方々はお試しを。

話が少しズレたので、ここに書いた1970〜90年代の糸巻きボールの価値について書いてみると、1個で数十〜数百ドルもする1900〜40年代の物には及ばないが、海外の物では1スリーブで15〜20ドル、プロのサインが入ると倍の値がついているのをゴルフアンティーク店のカタログで見た事が有る...まるまる当てはまるかは判らないが、目安には成るだろう。
もしこれらのボールにも結構な価値があって、今後トレードや何やらの対象と成り、新古の糸巻きが払底し、パーシモン・ヒッコリー党の方々がプレー出来なくなる事を心配される時が来たら、海外には打60ドルと高目だけれどもヒッコリー用のしっかりとしたボールが、ルイヴィルゴルフやタッドモア等から販売されている事をお知らせしてご寛怒を頂きたい。

*以上は著者(松村信吾)の経験より。





(この文の著作権は松村信吾氏に所属します)

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